昨年寺での座禅を経験した。騒音や煩い世相事から離れて寺の中で静かに座禅することは宗教的に意味づけることなく、神秘的である。座禅とは世俗から聖なるものへの変身ともいえる。私は時々旅行中誰もいない教会に座って祈ることがある。それも仏教的な座禅と似ているといえる。日本では宗教と政治を厳しく分離していて、このような祈りや座禅を教育課程に入れることはできない。
しかしお寺の仏教儀礼の一つである座禅に学生たちを公式に参加させて、新聞に良い意味で紹介された事はどういうことだろうか。私は以前、国立大学で聖書勉強会のための教室使用の許可を得ることができなかったことを覚えている。それはそれなりに納得をした。学校行事に座禅を取り入れることは教育的には悪くないとはいえども問題点はある。慎重に考えるべきであろう。それともすでに座禅は宗教儀礼ではなく慣習だというのであろうか。クリスチャンを含む他の宗教者としては座禅を公式に学事に入れることには抵抗感をもつだろうと思う。
しかしお寺の仏教儀礼の一つである座禅に学生たちを公式に参加させて、新聞に良い意味で紹介された事はどういうことだろうか。私は以前、国立大学で聖書勉強会のための教室使用の許可を得ることができなかったことを覚えている。それはそれなりに納得をした。学校行事に座禅を取り入れることは教育的には悪くないとはいえども問題点はある。慎重に考えるべきであろう。それともすでに座禅は宗教儀礼ではなく慣習だというのであろうか。クリスチャンを含む他の宗教者としては座禅を公式に学事に入れることには抵抗感をもつだろうと思う。
http://nyushi.hanazono.ac.jp/comment/reply/148
私もヨガや座禅が世界的に精神修練に一般化されるなどのようなことは奨励すべきであろうと思います。しかし仏教系ミッションスクールでもない大学で学事の中に仏教儀礼(約1時間の説法と座禅)としていれることは憲法上でも問題がないとはいえないこと、そのようなことを決めるまでは慎重にすべきだという意見です。ご一緒に考えましょう。
私もヨガや座禅が世界的に精神修練に一般化されるなどのようなことは奨励すべきであろうと思います。しかし仏教系ミッションスクールでもない大学で学事の中に仏教儀礼(約1時間の説法と座禅)としていれることは憲法上でも問題がないとはいえないこと、そのようなことを決めるまでは慎重にすべきだという意見です。ご一緒に考えましょう。
ですが、上で紹介したサイトの中のお話からは、自らの信じる宗教とは異なる価値観の宗教を認め、その教えの中から自らの価値観の血肉となるものを探す方がいらっしゃる事が解ります。
そんな中で自らの価値観に固執し、違う価値観に触れる事をチャンスとも思わないから学べる物がある事も知らない。
そんな探究心のない盆暗な学生には、何を教えても一緒と思うのですが。
憲法上では総理大臣が靖国神社に行って神道式儀礼に従って礼をすると「政教分離」に違反になると同じに今度の小さいケースも法律的な問題です。個人的に信仰をもつのは賛成であり、積極的に勧める気持ちです。ただそれが良いとはいっても強制することはできません。私は『宗教とナショナリズム』(世界思想社)のなかで儀礼と儀式の差をもって詳しく論じました。ご参考までに。失礼します。