崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

応援は祈りと賛美のようなもの

2014年09月27日 03時52分41秒 | エッセイ
このごろ私の言論に「日本の右翼に利用されているのではないか」という憂いがあるようである。「親日派」という韓国の国内用の言葉は古くなったようである。日本人の嫌韓やヘイトなどは「親日」という言葉では意味喪失になる。そこに新しく登場した言葉が「右翼化」という言葉である。日本では右翼や右翼団体などがあるが少数という意識であるが、日本から見ると韓国は全国民が右翼的であるようにも思える。日本の共産党の意見が韓国の意見と似ているようである。また朝日新聞の慰安婦問題への意見が韓国の思考の中心であったが、今度の朝日新聞の謝罪により韓国はその大きい礎が折れたのである。結局日本と韓国は右傾と右傾の対置、対立いわばナショナリズムの対決である。対決の基礎は競争であろう。
 いま仁川でアジアゲームが行われている。テレビでは報道されているが、客席には観客が少ない。ゲームは客観的な基準、評価、審判によって成り立っている。そこに面白さがある。応援は祈りと賛美のようなものである。応援が競技の客観性を損傷させることはできない。しかも外部の権力や政治によってゲームが行われるなら競技は成り立たない。日韓関係も同様である。学問もそうである。来週慰安所日記について東大アジアコロキュアムで講演する。客席に観客の少ないゲームでも真面目に真実に迫ってみようと思っている。 
 <続報>写真は孵化した二羽の中一羽だけが成長して巣立つ直前の姿である。
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