人を裁くな、疑うな、神が裁いてくれると言われてきたし、「法律がなくても生きられる良い人」として生きているつもりの人に「殺人者を裁きなさい」という「裁判員制度」が始まった。この話を聞いて私は「人民裁判」を思い出して不快感を持つ。朝鮮戦争中約3ヵ月間北朝鮮の統治期においてはよく耳にした。そして人民軍が撤退した直後韓国時代、まだ警察による治安がなされていない時に村毎に共産主義者の「パルゲンイ(赤)」を見つけて処置(死刑)するようになった。我が村では大変困った。結局村人を殺すことはできないということでその当事者を無罪としたことを覚えている。その後軍事独裁政権の時に国家はスパイを密告するように煽動して、「久しぶりに訪ねてきた客を疑ってみよ」という標語もあった。毛沢東の悪名高い文化革命では群衆によって「人民裁判」を行ったことは周知のとおりである。
重大な犯罪を裁く刑事裁判に一般人も参加する民主主義的な「裁判員制度」に私は反対する。それは素人が裁くからということで懸念するわけではない。そもそも近代的な裁判制度が一般の人と人の間で攻撃や復讐するのを防ぐために出来上がった間接的な制度であるからである。それなのにアメリカやドイツ、フランスなどの制度云々といい、それを導入した。私は戦前日本のプロパガンダ映画を鑑賞しながら今の日本の宣伝方式を読み取っている。
重大な犯罪を裁く刑事裁判に一般人も参加する民主主義的な「裁判員制度」に私は反対する。それは素人が裁くからということで懸念するわけではない。そもそも近代的な裁判制度が一般の人と人の間で攻撃や復讐するのを防ぐために出来上がった間接的な制度であるからである。それなのにアメリカやドイツ、フランスなどの制度云々といい、それを導入した。私は戦前日本のプロパガンダ映画を鑑賞しながら今の日本の宣伝方式を読み取っている。
>そもそも近代的な裁判制度が一般の人と人の間で攻撃や復讐するのを防ぐために出来上がった間接的な制度であるからである。
確かに裁判員制度は、より市民感覚を既成の司法に導入しようという掛け声の方に目が向きがちでしたが、被害者から見れば、自分を罪に陥れたという恨みを抱き、裁判員となった人に報復をし、それがまた反復される恐れがあることが分かりました。
これまでは前者、裁く側から考えていましたが、裁かれる側からも考えてみる必要がありますね。
人民裁判や魔女狩りのようになってしまうことが怖いですね。
取調べ過程を可視化すれば良いのではないでしょうか。それをしないなかでの裁判員制度は裁判官が全部お膳立てして、これで良いかということになれば、素人は反論のしようがないかも知れません。
取調べ過程の可視化が必要不可欠に思えます。
それにしてもよほど気をつけないと裁判官の意思や被害者感情に煽られて重罪化するのではと危惧します。