文化審議会は世界文化遺産登録に長崎の教会群とキリスト教関連遺産を推薦することを検討していると伝えられている。東京へオリンピックを誘致するニュースのように日本の世界化への動きと感ずる人も多いだろう。二つは過去と将来が対照的なものである。長崎の教会群のものは歴史的な記念物であり、オリンピックは7年も先の未来へのものである。大浦天主堂(長崎市)などの教会、「島原の乱」の舞台となった文化遺産とはどのような意味があるのか、考えてみたい。キリスト教伝来と信仰の歴史を示す、日本の歴史の中の残虐性を示すものである。その歴史の記念物として文化財に指定することはどこに意義があるのだろうか。日本は韓国よりキリスト教の伝播も早く長く、残虐な犠牲者も多い。したがって今信者は1%にも足らず、キリスト教の殉教や、キリスト教の教訓を活かせない国である。
いまその長崎のキリスト教会を歴史的記念すべき文化財云々ということは何のためか問いたくなる。その犠牲や殉教がいまに全く影響がないとは言えないが、それを世界遺産と強く主張するような意識はあるのだろうか。私はキリスト教の「歴史」は日本ではあまりにも空しいものとして感ずる。歴史とはただ「捨てられた過去」ではない。完全に捨てた過去は本当の意味では伝統や歴史とはいえない。
今日説教のために聖壇に立つことになっている。禁教の時代を経て復活しているキリスト教の歴史に立つ意味があるかもしれない。それは長い間私が教壇に立っているのと似てる。私は教壇に立つ毎教会の説教壇に立つ気持ちで講義をしてきたつもりである。それが皮肉や冗談で言う「説教」ではなく、本当の説教と思ったからである。長崎などのキリスト教の犠牲の歴史は日本には見え難い。今、文化財指定に推薦にしている時こそ、それを「生きている歴史」にしてほしい。
いまその長崎のキリスト教会を歴史的記念すべき文化財云々ということは何のためか問いたくなる。その犠牲や殉教がいまに全く影響がないとは言えないが、それを世界遺産と強く主張するような意識はあるのだろうか。私はキリスト教の「歴史」は日本ではあまりにも空しいものとして感ずる。歴史とはただ「捨てられた過去」ではない。完全に捨てた過去は本当の意味では伝統や歴史とはいえない。
今日説教のために聖壇に立つことになっている。禁教の時代を経て復活しているキリスト教の歴史に立つ意味があるかもしれない。それは長い間私が教壇に立っているのと似てる。私は教壇に立つ毎教会の説教壇に立つ気持ちで講義をしてきたつもりである。それが皮肉や冗談で言う「説教」ではなく、本当の説教と思ったからである。長崎などのキリスト教の犠牲の歴史は日本には見え難い。今、文化財指定に推薦にしている時こそ、それを「生きている歴史」にしてほしい。
何故キリスト教に残虐性が向けられたのかを考察しないで一方的に語るのが「生きた歴史」ですか?