崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

温故知新塾講演(続報)

2014年09月18日 05時33分43秒 | 旅行
昨日午後2-4時下関市と北九州市(門司区)主催の温故知新塾(学習プラザ多目的ホール)で「関門海峡国際都市下関」という演題で講演をした。ただメモのようなレジュメ一枚「国境を挟んで生きること」をもって立って、1時間余り話をし、質問を合わせて2時間の講演であった。100人強の聴衆が居眠りや途中退席なく、聴取してくれた。
 司会者の石川氏はが私を紹介しながら拙著『雀様が語る日本』での「雀」先生として「崔先生」と紹介してくれた。その「雀先生」ということを糸口にしてスムースに話が進んだ。朝鮮半島の南北の境界38度線近くに生まれて、大学へと上層へ、上層へと始まった人生が日本留学して苦労話へ、地獄に落ちたような経験。しかしその経験が生きる力になったことへの感謝などをした。
 父が38度線を往来しながら牛の売買業であった国境商売から牛について「焼肉の文化人類学」などの文を書いたこと。また朝鮮戦争を体験した戦争を語り、「朝鮮戦争と韓国社会の変化」『変貌する韓国社会』(第一書房、1998)などを書いたこと。38度線という悲劇的な南北境界線から私の話は下関に住むこと、下関と釜山を往来する関釜連絡船のボッタリ商人、関門海峡、朝鮮海峡、玄海灘、日本海を挟んで拙著『下関を生きる』に話は進んだ。そして中ソ国境(満州里、沿海州など)、中越国境(ランソン)などを歩いたことを話した。
 国境を挟んで往来し、住むことは周辺人(マージナル)にスパイと思われがちである。二重国籍人はスパイか国際人と言われたことの例としてソ連に住んでいる朝鮮人=韓国人の例を挙げた。ソ連側からは朝鮮人は日本人に最も近い危険な民族と思われ日本人と分離させようと沿海州から中央アジアへ強制移住させられた。また日本人から朝鮮人はソ連に近い民族,怖い存在とされて1945年8月20日から23日にかけて朝鮮人27人が惨殺された。日本とソ連の挟間にいた状況において朝鮮人は時にはソ連側から、時には日本側からスパイとされた。日本帝国は35年間続き「内鮮一体」の政策を強く実施し、朝鮮人を帝国臣民化する政策をしたが民族は溶け込むことは出来なかった。今は日韓関係が最悪の時代になっている。世界で反日感情の一番強い国の韓国人は戦後の教育とメディアによるものである。ここに教育が問題とされる。 
 7分休憩をして質問時間になった。元校長の石川氏が教育への予算が少ないという意見、ある女性は年収200万円の主婦であり、どうして教育ができるかという。経済と教育、良い教育とは何かに触れた。「考える教育」に日本は遅れていると主張した。ある男性は伊藤博文、慰安婦問題について質問した。私はこの問題を中心に準備したが日韓の微妙な問題であるという憂いの声があって取り上げなかったが、この質問には私の最近書いて販売中の『新潮45』へと譲った。最後にはドラマや映画など文化交流に関する質問もあった。最後まで熱心に聞いてくださった参加者に感謝と健康を祈る。



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