崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

長周新聞へ寄稿文

2015年04月23日 05時17分28秒 | 旅行
 「批評精神と広い視野」
 私は職場も居住を八回ほど変わりながら、日本では東京、名古屋、広島、下関と移り住んで、ここ下関は日本で4番目に住んでいる所である。この下関で初めて酷い縄張りにぶつかったことを覚えている。大都会に比べて小都市や街、村に入るとより住み慣れるのが難しいことは知っているが、私のように他地、それも韓国出身である者として縄張りにぶつかることは当然といえば当然であろう。しかし。なぜこの地域はなわばりや差別が酷いのか。ある下関出身の有名人はここで差別されそれが嫌で外に出て名前を売るようになって招かれる客となったと回顧する。下関発ではデビューすることができないという。
 下関は人材を産み育み、外に出す資質はあるが、地元の人への関心は薄く中央から名前が出たり、受賞したりするとその受け皿として騒ぐ典型的な田舎パターンである。映画監督のグスヨン、赤江瀑、田中慎弥の諸氏も地元からの発信ではなく、中央回帰型である。中央回帰型で地方創生は無理だろう。沖縄のように地方中心主義があまりにも強くなるのもいかがなものかと思いながら下関の中央依存型には失望している。
 私が他地域に住みはじめてスタートとしてすることは地域の新聞を読むことである。長周新聞は地域に密着していて、批評意識をもっている。この地域の地域新聞や全国紙の地方版と合わせて、本誌の特に論評や書評、文化行事に関する記事は優れていると思う。長周新聞の読者となって10年目、毎年のように新年号などには寄稿もさせていただいている。そして情報を共有しながら人間関係を広げてきた。長周新聞は60周年を迎えるということは記念すべきであり、それに寄せて期待を込めて展望を願いたい。
 新聞は民衆を代弁するもの、戦ってくれる民衆の杖か鞭ともいわれるが多くの日本の新聞は行政の広報紙に過ぎないようにも感ずる。特に地方の新聞は行政中心に広報紙、地方選挙では無投票当選、連続当選という結果を出すのもこのような言論の所為ではないだろうか。長周新聞は他の新聞とは異なる。行政とは一線を引き、批評や論調を持っている。 
 この地域の新聞記事を総括的に見ると年中行事のように日程が決まっており。マネリズムとなっていて、地域性があまり濃いと感ずる。地方の新聞には地方の郷土愛、懐かしさ、結束に重点が置かれていることは当然であろう。この地域の新聞などの紙面に登場するのは高杉晋作、吉田松陰、金子みすず、田中絹代などであり、それも繰り返しで載っている。それらを強調するのは当然必要であるが、全国へ、アジアへ、世界へという広がりが欲しい。たとえば松陰先生の教育、近代化への影響に関して、アジアへの影響は大きいことは読んだことがない。タコ壺式内向けばかりなのでそれから脱皮しなければならないのではないかと思っている。先日西日本新聞にはシリーズ韓国の作家の企画記事が連載されていた。訪ねてきた記者は大学で朝鮮文学専攻の人である。東京など中央へばかり焦点をおく新聞とは大いに異なっている。私は長周新聞の批評精神と広い視野に期待する。

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