崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

人生はドラマではない。ただ自然なまま、「未完成」だけである

2013年01月20日 04時51分23秒 | エッセイ
 今日は田中絹代塾で尾崎紅葉の『金色夜叉』の翻案映画「長恨夢」について語る予定である。作家の病死のために原作の小説は未完であった。後に小葉によって完成続編が出て、さらに韓国で翻案の形で創作された映画について話をしたい。今日のテーマはその文学の話ではなく、1937年清水監督の「金色夜叉」と1969年申相玉監督の「長恨夢」との映像の比較分析である。しかし問題になるのは、その未完成の話が避けられないことである。完成や完結とは作品やもの作る意図や形式であり、自然なものではない。
 人生に完成があるだろうか。人生の命と死は神様によって左右されているのかもしれない。人によっては生き方に目的と達成の完成ということがあるかもしれない。しかし作家から見ると昔話のように「あるお爺さんとお婆さんが仲良く幸せに暮らして死んだ」のようなハッピエンディングな完結は面白くないだろう。バリバリ仕事をした人が年をとって衰弱していくような非ドラマチックに消えていくような人生が一般的である。このような人生の結末は作家の注目を引くことはないだろう。ただ作家による不自然な結末があるのではないだろうか。シューベルトはシンフォニーのソナタ形式に合わない「未完成」をつくり、また多くの作曲家が曲末の処理を創作したのである。
 貫一が宮を恨み、憎悪であったのに宮を許して再結合することはつまらない結末になるという読者が多いだろう。しかし韓国の「長恨夢」では再結合の結末になっている。最近の人気韓流ドラマは新派調の通俗的なハッピエンディングにしているのと同様「つまらない」。人生はドラマではない。ただ自然のまま、未完成のままであろう。
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