崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

オリンピックによる共同体

2016年11月27日 05時38分00秒 | 講義

  下関港に表れた姜氏夫婦はまず私の健康回復に驚く表情をした。彼も80歳で健康な学者、名家に生まれ育ってアメリカ留学し、多くの職場を移りなら国際的に活躍した友人である。人情と研究のバランスが取れている人、彼は私と韓国文化人類学会創立何周年かの記念に講演したと言う。しかし私は覚えていない。彼は人との絆を大事にする人情の深い人、この度久しぶりに教壇に二人が登場した。主題はオリンピックであった。彼は初頭を日本語、そして本学の魏鐘振准教授が通訳を務めてくれた。
 オリンピックには肯定的、否定的両面の機能があるといい、まずリフェンスタール・レニー監督の1936年ベルリンオリンピックの映像でマラソン優勝者の孫基禎氏が当時、朝鮮人でありながら日本人として出場。このことから植民地の負の遺産の話をした。大東亜共栄圏の悪夢があり、東アジアでワンアジア共同体は不可能であろう。しかし肯定的な面がより多いと。クベルタンが主張したオリンピック精神によってスポーツ教育の重要性を強調した。ギリシャ古代オリンピア遺跡では平地でデルファイ神殿、その上に劇場、その上に運動競技場の配置について宗教、芸術、スポーツの総合的な意味を語った。オリンピックは開催都市が主であり、国家が主ではないと指摘した。しかし国旗を持つこととなりメダル競争のイメージが強い。アベマリオと小池の写真で日本は宣伝が上手いといわれた。
 私は国家宣伝のような行事よりスポーツ種目自体の中でスケートや水泳などが音楽や舞踊を取り入れるような変化があることを指摘して議論したかったが国家の行事の総合芸術化の議論になった。二人の学生がコメントを発表、オリンピック中休戦、自分との闘いなど重要な点が指摘された。またフェースブックから台湾の頼氏のコメントもあったが議論する時間はなかった。いずれ講義の中で議論を続けたい。私は広く深く、なお新鮮な講義であったと高く評価した。後に私の研究室では市民から東亜大学の学生のレベルが非常に高いといわれ、嬉しくなった。教員の研究力も高いということを付言した。