崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「壬辰倭乱」

2016年09月11日 06時12分42秒 | 日記
私は以前から学者は知識人とは異なることを考えている。考えて知識を求め、知識を以て考えると思っている。特に最近スマートフォンなどネットの知識を持つことは知識人として幸運であろう。知識を増やして知識人に留まるのはもったいないと思っている。昨日は「楽しい韓国文化論」で礒永和貴氏が韓国に残っている「倭城」をもって講義をした。中国や韓国では日本を「倭」というやや蔑視語で表現する。。日本は古くから「倭」のコンプレックスから「和」に替えたという上田正昭氏の論を思い出す。韓国の教科書で「壬辰倭乱」の「乱」を「戦争」に替えた。それは内乱外憂つまり乱(内)と国家間の戦争の定義を正したことだと思われる。昨日朝鮮の城、例えば漢城と倭城との差が明らかにされた気がする。つまり朝鮮の城は政治的王権の権威を表すものであるのに反して倭城は戦争のために短期間で建築したものであったということである。
帰宅して東洋経済日報が届いた。私の連載エッセイ「苦労話の価値」が載っている。1960年代文化人類学を専攻する初年兵として伝統的なシャーマンを調査した時し難しい問題に遭遇した話である。ムーダンは伝統的な被差別集団として差別されていた。ムーダンのリーダーである金氏は自ら族譜上両班であることを私に強く主張した。私は戸惑った。伝統的に最下層であったムーダンが自ら両班だというのは納得できなかった。私は彼に被差別の身分であることをあえて明らかにすることは如何だろうかと勧めた。彼は悩んだようであった。再びその問題について討論する時は当時同行した友人である演劇評論家の李相日氏が同席して助言した。しばらくたってから金氏自ら「三代続きののムーダンだ」という「宣言(?)」をした。当時それは大変な勇気ある言動であった。苦労話を隠し、過去を美化している人が多い中それがメディアでも大きく報道された。その後、時代が変わり文化政策が変わり、彼は上層へと昇格され、「先生」とされ、名誉ある人間文化財として亡くなられた。