崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

釜山にて

2014年11月24日 04時05分09秒 | エッセイ
昨日釜山に着き、魚市のジャガルチ市場、ロッテ百貨店、南浦洞、国際市場など大通りを歩いた。9000歩弱歩いた。週末を楽しむ人々、連休を楽しむ日本人、旅行を楽しむ東南アジアの人々が混ざった国際的な通り、若者があふれる都会の雰囲気を満喫した。下関の寒山とした町から来た者として「田舎の鶏が市場の真ん中に立っている(韓国のことわざ)」感がした。
 コーヒーショップに入った。三浦ご夫妻の空港での荷物探しに若干のトラブルがあった話がスパークになり、私の旅行の話に火がついたように話をした。北京空港で私が人の鞄を間違えてもってホテルで気がついて空港へ戻り、返すまでの長い話。言葉がまったく通じず一人旅のトラブルの話は延々と続いた。私の失敗談で今では笑い話として語り聞き手も笑った。
 当時の苦労話がなぜ今笑い話になるのか。ここにポイントがあると気がついた。家を出る前までゲラを校正して発送した近刊著では戦争中の経験に基づいたもので、当時10歳であった私にとって戦争は怖く面白いものであったことに関する内容である。辛い経験をなぜ楽しく語れるのだろうか。それはただ過ぎ去ったことだからということだけで済ませることではない。今私は平和で安全でまた幸せであるから悲惨な過去を楽しく語れるのであろう。人はそれぞれ辛い過去を持っているはずである。国もそうであろう。歴史をいつまでも悲惨なことして辛く思い、葛藤を起こすのも今が不幸であるから否定的に語るのではないだろうか。