崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「琉球政府」と「日本政府」

2014年02月22日 05時19分58秒 | エッセイ
石垣島の現地調査の二日目、初めは後輩たちの調査を後ろからついて行って見るように傘だけ持ってぶらぶら、グループとコースによって車を乗り替えながらジグザグに走った。しかし私はほぼ完ぺきに調査態勢になっていた。それはスマートフォンで録音、映像、撮影ができるからである。
 まず100年の歴史をもつ玉那覇酒造所へ行った。タイ米を洗い、蒸し、一晩ねかして4台のつなげコンベアーで横のタンクにいれて手で黒酵素を混ぜ、モロミが黒くなったらタンクに日づけをして17日間発酵させる。そして蒸流する釜に入れ 蒸留されて出てくる70度(平均45度)のアルコールを手作業で瓶詰め、商品化する。
 次は石垣台湾人の墓へ、台湾人会の会員(資格2年以上)の墓地、墓参りとレクレーションできるように死者と会う宴の場でもあるという。それはサハリンなどでも墓場にテーブルや椅子を備えて離れ離れに住んでいる親族が集まる場所となっているのと似てる。海外に住む同胞たちの知恵のように感じた。曇って陰惨な墓を一人で隅隅まで歩く時、カラスが集まっていた。自分の死後のことを考えた。御嶽が神社化されて清めの井戸などがある所に車を止めて撮影した。
 登野城の正木譲氏宅では彼の祖父母が台湾に住んだことがあり、1944年疎開のために台湾の台南に移住して戦後戻って気象台で42年間公務員をした話を聞いた。彼はその長い公務員生活からいわば占領時代の「琉球政府」と現在の日本政府とを比べて次のように語った。日本への復帰については民主主義になれるかどうか疑問をもったと言う。そのままが良かったかもしれないと日本政府に否定的な態度をとった。まず琉球政府時代には官吏として教員や一般人が採用されていて民意を直接聞いて政策に反映してくれた。飛行場の危険性と毒ガスに反対運動をすると米軍は世論を聞いてくれた。彼の4年間の勤務中の有給休暇80日間を守ってくれて許可を得た。今は島民の意見を米軍に言っても日本政府に話をするように言うだけで聞いてくれない。日本政府の官吏は戦前の官僚制がそのまま残っていて規制ばかり気にして中央からの指示に従っているので仕事が上手くいかない。1970年代復帰直後沖縄で聞いた意見と似ていて当時を思い出した。
 台湾人としてパイン工場などを経営してきた曽根はるこ氏の話も聞いた。曽から曽根と創氏改名した。29歳にここにきて44年になった。彼女は夫の工場などに協力しながら台湾に船で往来しながら台湾の物、主に衣服を持ってきて売る仕事をしたというので下関のボッタリ商人と関連して面白く傾聴した。その後社会福祉会館で与那国議員の田里千代基氏のはなしを聞いた。彼は国境政策、地方と中央の平等関係、観光、国際化などの提案を多く出され、1500人の住人にも暖かい視線を向ける政治の必要性を語られた。彼は夜の夕食会にも参加して挨拶をされた。お刺身が豊富に出る料理でも私は健康のためには早目に引きあげた。今日もタイトなスケジュール、明日は那覇へ移動する。(写真は墓)