崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

話術

2010年11月21日 05時46分48秒 | エッセイ
私には研究し、発表と討論をする機会がとても多い。それは学生たちから世界的な学者に至るまでさまざまな人が対象になる。最近は質問したりコメントする機会が増えている。基本的には相手の立場に立ってプラス思考でアドバイス的な態度をとる。それは私だけではなく討論の常識である。時には教員たちが学生を一斉非難攻撃する、いじめるような光景をみて憤慨したこともある。
 国会討論の中継を視聴すると、それは研究会とは非常に異様な、あるいは常識を外れていると感じる時が多い。まず質問者(野党)が上位、答弁者(下位)と不平等に設定されている。討論や討議より審問のような気がする。ある議員は自分が知っているものを質問し、相手をテストする。答弁者が知らなかったら猛攻撃する。選挙の現場であれば多少許されるが、政策を検討する討論会が中身を軽視し、「失言」を論点にする。決して良い討論とはいえない。しかしマスコミはそれをクローズアップする。いま法相の国会の外での話で「辞任」に追い込まれ、「法相は辞任か」という。
 私は短期間ではあるが高校の国語の教師をしたことがある。文章の分段の大意を把握させる、考え方を中心に教えたことがある。場合によって大意を把握することによて単語の不適切、間違ったことを直すこともある。たとえば仙谷氏が「自衛隊とは一種の暴力装置」と言ったが、大意は国民から委ねられた正当化された力、武力、暴力の装置という意味である。その大意においては暴力という単語は問題ない。その趣意を把握できない教養の低い国会議員は「悪い暴力」の意味にしか聞こえなかったからワーワー騒ぐ。そして「辞任」まで追い込む。悲しい現実である。達弁ではなくとも普通の「話術」の教育が足りない。