崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

携帯電話

2010年02月24日 06時35分08秒 | エッセイ
 携帯電話を英語ではcellphone、mivile phone, carrying phone、handphoeなどという。一般的なのはcellphoneである。それはセル(細胞)式に区画された地区ごとに低電力の無線局を置いた移動電話システムであるというかなり技術的な名称である。私にはhandphone「手電話」が良いかと思われるが名称も使いやすさが勝ちである。
 携帯電話は私には子供の時の夢がかなった玩具感覚が強い。実際子供や若者文化として定着しているようである。人によっては固定電話を優先して携帯電話を限られた人にだけ知らせるが、いずれ固定(fix)から移動(move)へとなるだろう。珍しいパーソナリティのように携帯電話を持たない人もいる。しかしこの「携帯文化」を拒否することはできない。
 昨日携帯電話を持たずに外出してしまった。一瞬無重力状況を感じた。通話は人のものを借りてすることはできたが、持っていないこと自体がさびしく、不安さえ感じた。電話番号、日程などの情報が入っているからではあるが、それより体の一部として機能しているようにも感じた。物体が生体に合体するのは人によってはぺースメーカー、メガネ、義歯、補聴器、義足、杖など無数にあるかもしれない。今後、セル(細胞)式電話は生体の細胞や脳味噌の機能をしてくれるようになっていくかもしれない。「携帯文化」に関して新たに認識したの一日であった。