崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

一遍上人の念仏

2010年02月16日 05時26分56秒 | エッセイ
 1997年ロシア、イルクツクの正教会調査、1998年ハバロスク韓国教会中央教会での礼拝、2000年サハリン正教会のクリスマス礼拝と2001年連合聖歌礼拝などを私が撮影したものを昨日編集した。正教会ではイコン(聖絵)、ロウソク、焼香、聖歌などによって礼拝が続く。私が長く信仰生活をしてきたキリスト教(プロテスタント)からは表面的に見えたが映像を編集しながら救われる感がした。それはキリスト教が精神的に悔い改めて生まれ変わるという信仰的な奇跡ともいえる変化を宣言したルーターの改革によるものである。しかし多くの教会の礼拝ではその本義をキャッチできず聖書の箇所をこじつけるよう説教が多い。私がカトリック教会で感動したのは説教ではない儀式であった。形式的な儀礼から解放されてきたキリスト教から形式主義への逆戻りであろうか。
 先週博士請求論文の「一遍聖絵」の分析を読み審査を行った。一遍は10歳のとき母が死ぬと出家、父の死をきっかけに還俗し、再び出家し、各地を転々としながら修行、民衆を救うため「信不信」をえらばず念仏札を配り始める。踊り念仏を始めた。踊り念仏で極楽浄土へと導いた。観念的な思惟よりも、ひたすら南無阿彌陀佛の六字の念仏を称える実践に価値を置いた。皆誘惑の事をも打ち捨てて念佛すべし。「捨ててこそ」念佛の行者は智慧をも愚癡をも捨て、ただ空なる者の心に立ちかへりて念佛し給ふべし。
 念仏はインド仏教をはじめ世界的に広く唱えられていたが、それをもって奥深く悟った一遍はやはり聖人であると思った。彼の「信不信」はキリスト教さえ含んでいる。「国民が…」という政治家たちに聞かせたい。
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