永野宏三のデザイン館&童画館  アート日和のできごと

イスラエル国立美術館、ミュンヘン国立応用美術館、国立国会図書館、武蔵野美術大学美術館図書館他に永野宏三の主な作品が収蔵。

リック・ジェイスン。

2008-04-21 19:12:23 | 日記・エッセイ・コラム
衛星放送をみていたら、40年前くらいに放映されていたアメリカのTVドラマ“コンバット”があっていた。二三年前だつたか民放でも深夜に繰り返し放映されていた。根強い番組だ。僕が中学二年生頃くらいのTVドラマだ。その前の年代だと言えば“ルーシーショウ”“ベンケーシー”“名犬リンチンチン”などがあった。“コンバット”は日曜日夜8時からの放映だった。その前の時間帯は、7時から“鉄腕アトム”7時半からは“隠密剣士”だ。テレビの前で陣取って、食い入るように観ていた。わくわくして観ていた。コンバットの主役は名優ビッグ・モロウ、並んでリック・ジェイスンだ。当時の番組はもちろん、モノクロだ。コンバットの制作プロダクションは“セルムプロダクション”だ。今でも放映されているということは、著作権者はそのプロダクションなのだろう。その頃の記憶としては、フォークグループの“フォーククルセーダース”が♪おらは死んじまっただ♪だを唄っていた。世界ではビートルズがいろいろ物議をかもしていたころだ。中国では毛沢東と紅衛兵の時代である。芸能の世界ではあと二三年もすると、ピンキーとキラーズ。グループサウンズの時代に入っていく。まだまだ日本は庶民が平和な時代であったような気がする。


懐かしい風景。

2008-04-19 20:08:39 | 日記・エッセイ・コラム
20数年ぶりに飯塚へ行く。友人と飯塚で待ち合せ、久しぶりに顔をあわせる。飯塚には日頃ほとんどと言っていいほど縁はない。たまには福岡に行く時に路線で通過するだけだ。20数年前にあるビールメーカーの仕事で嘉穂劇場を取材スケっチに行った以来である。懐かしいので嘉穂劇場に行ってみる。ぜんぜん変っていなく昔のままの姿だったので、なぜだかホッとして安心する。こころの風景に帰る場所があるのだ。嬉しくなってひとりはしゃぐ。劇場の裏の川の光景もほとんど変っていない。通りの人に道を訪ねるふりをして声をかけて、町のあちこちのことを訊ねると、不審がらずに気さくにあたたかく話しに応じてくれる。嬉しくなる。話題の旧伊藤右衛門邸に足を伸ばす。この邸のうんちくの話題は歴史の中のこととしてなるほどもっともと認識はするが、屋敷の豪華さには驚く。屋敷は旧長崎街道沿いにあった。飯塚もごたぶんにもれず、町の通りは活気がない。シャッターが降りている店先もある。格差がこの町にも及んでいた。Rimg0007
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身体。

2008-04-18 16:17:59 | 日記・エッセイ・コラム
最近テレビ番組で、大食いや食べ歩き、デパ地下特集があるかと思えば、恐い病気の話しや健康ウンチクの番組が交互にあっている。ネタが無いからこういうテーマが身近で制作も手っ取り早いのか? 僕はこういうのはほとんどと言っていいほど興味がないから見ない。僕はとっくの昔からメタボだ。優良肥満児だ。何度かダイエットに挑んだが、その都度成果はあるのだが、そのうちストレスが溜ってきて、どうでもよくなる。最近奥さんが新しい体重計を買ってきた。何やら、いろいろ健康チェックができるらしいが、僕は頭から頑として、その体重計には乗らない。何か出る(恐いからではない)と嫌になるからだ。僕は納豆や、豆腐、ねぎの酢みそ和えがあれば、食事は事足りる。先日、月に一度の健康チェックでかかりつけ病院に行く。長年つきあいの先生に、「別に大食していないのに、体重が減らないのですが」。先生いわく「食べるから、肥えるのです」。血圧計って、先生から「努力して体重落としましょう」。生きることはたいへんだ。


歴史はなぜ?

2008-04-17 19:52:06 | 日記・エッセイ・コラム
久しぶりに、ちくま学芸文庫から出ている“幕末写真の時代”を本棚から引っ張り出して読む。幕末から明治にかけた日本の風景、事象、人を、当時の外国人と日本人の写真家が撮影した写真を編集した文庫本だ。フォトグラファーは、上野彦馬、下田蓮杖、ホフマン、ベアトなど当時の人たちだ。坂本竜馬、徳川慶慶、高杉晋作、江戸、京都、長崎、鹿児島、下関、熊本などの江戸末期、明治のころを撮影した写真が掲載されている。日本は外国に占領されているのは先の大戦だけではない、幕末に下関がイギリス、フランスなど四カ国連合から占領されている事実がある。この時の写真も載っている。自分が門司に住んでいて、ふと思ったのだが、当時の門司や北九州の写真がないのはなぜだろうか? シーボルトの著作には小倉や門司のことは詳しく活字で記してあるが、絵にも描いてある。幕末、明治の写真はほとんどといって無い。当時、この地域も関門を挟んで重要な土地であつたはずだ。小倉は幕府側で改革的ではないから、情報を規制していたのだろうか。明治の国策事業の門司の築港のあたりからの写真はある。幕末、明治初期の写真は無い。調べてみる必要がある。


海峡からの旅立ち。

2008-04-15 16:10:03 | 日記・エッセイ・コラム
今日の毎日新聞夕刊文化欄を読んでいましたら、ある大学の学長さんが、芥川龍之介が上海を旅したことを書かれていました。旅立ちは大正10年3月に門司港だつたそうです。芥川龍之介と門司港。きっと西海岸から旅立ったのでしょうね。当時、門司港は上海経由ヨーロッパ行の船が出ていましたから、その船に乗って行ったのでしょうか。門司港は、戦前、戦中と数多くの著名人が外国を行き来していますから、その中のひとりなんですね。何だかロマンを感じます。でも、門司港は国際都市。これが当り前の風景なんですね。昨年、西海岸のある施設で出征兵士の記録展を観たのですが、俳優の故・加東大介さん(若い人には、知らないかもしれませんが。昔、東宝映画に出ておられました。黒澤明監督の映画には必ず出ておられました。)も出征は門司港だそうです。展示されていた記述に「日本の国土(加東さんの記述を読んで門司港をそう表現されていたように記憶しています)から船が出る時、万感迫るものがあった」とありました。海峡のことで言えば、わたくしごとの話しですが、その昔、僕が描いたポスターの絵を目にされた読売新聞の学芸記者の方が評して、「海峡という言葉には、人のにおい、息づかいがある。海を挟んだ生活と生活がぐっと近づき、混じり合って膨らむからだろうか。(中略)人の心には川が流れている。関門海峡の流れは心の川につながり、夢を運んで悲しみを押し流す。」と、新聞の書評に書かれました。時代や社会は縦横に変化しても、土地と人は変らないですね。Rimg0001