
今日も"図"があるんだけど、その解説をする前に、ちょっとわき道な話から入る。
iPadのどこにぼくはこんなに毎日ブログ書くほど惹きつけられているのか、喜びまくっているのか。それは、美しいからだ。端末として美しい。だから、その中で表示される世界も美しくなければ許されない感じがある。美しくないとがっかりさせられる。
ここで言う"美しい"にはいろんな形容詞が入ると思ってほしい。かわいいとか、カッコいいとか、ステキだとか、いろんな方向からの美しさ。それがiPadには必要なんだと。
ぼくが”その2”で書いた「電子雑誌はPDFじゃダメなんだ」と言うのも、PDFだからダメなんじゃなくて、紙の雑誌をそのままPDFでiPadにぶちこんでるその感覚が、とっても美しくなかったからだとも言える。こう言っちゃなんだけど、システム的な発想だけで”はい、こうすりゃiPadで読めますよ、いっすね?”というぞんざいな物事の捉え方を感じとってしまったのだ。
そしてここからはある種、暴論。(あーこわいなあ、誰かを怒らせたり傷つけたりしてしまいそうだ、けど、ここにふれないと今日の話は進まないから、怒っちゃった人、ごめん、とあらかじめ謝っておこう)
ぼくは前々から思っていた。日本のシステムづくりは、アウトプットが美しくない。きちゃない。
何を言っているのかというとね。例えば、多くのECサイト。美しくない。新しいWEBサービスのほとんどは、美しくない。あまたの携帯サイトのデザイン、きちゃない。もう、たくさんの反論、非難ごうごうを覚悟して言うと、日本のデジタルデザインはそのほとんどが、キライ。ごちゃごちゃしてて、美しくない!
GUIという言葉があるでしょ。Graphical User Interfaceの略。いろんな機器の操作画面とかね。WEB上の新サービスとかね。操作するために、つまりUser Interfaceをね、Graphicalに作るんだよ、というね。そもそもは、Macintoshというコンピュータからして、マウスでカーソルを動かして操作するGUIが開発思想の根本にある。それはいまやいろんな機器に受継がれている。
でもね、日本のほとんどの機器の、あるいはWEBサービスのGUI、きちゃない。Graphicalが抜けてる感じ。
なんか、ゴチャゴチャーとしてたり、ただ並んでりゃいいんでしょ、だったり、あっちこっちに何でもかんでもつめこんじゃってたり、見てると楽しい気持ちが萎えちゃう。
ものすごく感覚的なことだけ言っているみたいだけど、でもそこにはかなり相当、根深い問題が隠れていると思う。日本のテクノロジーと、クリエイティブとは、まったく別個に歩んできてしまったのではないか。
それがなぜか、は別の機会に話すとして、iPadがぼくらに突きつけてくるのは、クリエイティブとテクノロジーは融合しなさい、仲良くしなさい、結婚しなさい、ということではないかと、ぼくは感じとっているんだ。
別の言い方をするとね、テクノロジーだけで作られたUIは、便利に見えて便利じゃないんだ。だって、美しくなきゃ便利じゃないんだもん。iPadが提示する世界は、美しいから便利なんだ。
例えばTwitterはそのネーミングから鳥の世界で彩られることが多い。注意喚起音に鳥のさえずりを使っているアプリが多い。あれが、プーとかピーとかただ電子的なだけの音だったら、それは便利だろうか?注意をうながす用途は足りてるかもしれないけど、楽しくない。楽しくない音は、便利ではない。ただ用途が足りているというだけだ。
iPadの画面の中では、そういう、便利なだけだと便利だと思えない。美しくなきゃ便利と感じとれない。だから、いろんなアプリの、アイコンが、操作画面が、音声が、どこか個性を持っていたりキュートだったりする。だからこそ、いじりたおしたくなるんだ。
さてここでようやく、上の図を見てください。もう画面のずーっと上の方に行っちゃったね。
iPadがそんな風に、美しさを求めてきた時、いちばん大事なクリエイティブ因子は何だろう?図に答えが書いてあるね。そう、アートディレクションだ。映像や音声、音楽が使われていても、最重要因子、すべてをまとめあげるのは、アートディレクションなんだ。これがまた新鮮というか、どこか本質的なことを突きつけられてる気がするところ。
例えば広告クリエイティブでは90年代以降、映像広告、つまりテレビCMが"主"だった。新聞広告やポスターなどは、映像のキービジュアルを一枚絵にしたもの、という、どこか"従”の立場だった。
あるいは、映像コンテンツの雄である映画は、よく"総合芸術"といわれて、すべてのクリエイティビティの頂点にある、ような語られ方を時としてされて来た。
ところが、iPadの画面上では、iPadコンテンツでは、映像も要素のひとつにすぎない。
だからグラフィックが"主"で、だからアートディレクションが大事だ、と言っているのでもない。グラフィックも映像と同じく要素のひとつにすぎない。でも全体の受皿は"アートディレクション"だと言わざるを得ないのだ。
別にね、世の中のアートディレクターの皆さんをヨイショしてるわけでもないよ。アートディレクションを、これまでのアートディレクターがやると決まってるわけでもないしね。ただとにかくどうしても、iPadを使って使いたおして、画面を見つめていると、ああ必要なのはアートディレクションなんだなあ、と感じてしまうのだ。
ありゃイカン、ここにたどり着くまでにえらく長くなっちゃった。そしてこの話はまだ全然終わっとらんとよ。というわけで、続きは明日ね。まだまだ、まだまだ、続きがあるのよ・・・
iPadのどこにぼくはこんなに毎日ブログ書くほど惹きつけられているのか、喜びまくっているのか。それは、美しいからだ。端末として美しい。だから、その中で表示される世界も美しくなければ許されない感じがある。美しくないとがっかりさせられる。
ここで言う"美しい"にはいろんな形容詞が入ると思ってほしい。かわいいとか、カッコいいとか、ステキだとか、いろんな方向からの美しさ。それがiPadには必要なんだと。
ぼくが”その2”で書いた「電子雑誌はPDFじゃダメなんだ」と言うのも、PDFだからダメなんじゃなくて、紙の雑誌をそのままPDFでiPadにぶちこんでるその感覚が、とっても美しくなかったからだとも言える。こう言っちゃなんだけど、システム的な発想だけで”はい、こうすりゃiPadで読めますよ、いっすね?”というぞんざいな物事の捉え方を感じとってしまったのだ。
そしてここからはある種、暴論。(あーこわいなあ、誰かを怒らせたり傷つけたりしてしまいそうだ、けど、ここにふれないと今日の話は進まないから、怒っちゃった人、ごめん、とあらかじめ謝っておこう)
ぼくは前々から思っていた。日本のシステムづくりは、アウトプットが美しくない。きちゃない。
何を言っているのかというとね。例えば、多くのECサイト。美しくない。新しいWEBサービスのほとんどは、美しくない。あまたの携帯サイトのデザイン、きちゃない。もう、たくさんの反論、非難ごうごうを覚悟して言うと、日本のデジタルデザインはそのほとんどが、キライ。ごちゃごちゃしてて、美しくない!
GUIという言葉があるでしょ。Graphical User Interfaceの略。いろんな機器の操作画面とかね。WEB上の新サービスとかね。操作するために、つまりUser Interfaceをね、Graphicalに作るんだよ、というね。そもそもは、Macintoshというコンピュータからして、マウスでカーソルを動かして操作するGUIが開発思想の根本にある。それはいまやいろんな機器に受継がれている。
でもね、日本のほとんどの機器の、あるいはWEBサービスのGUI、きちゃない。Graphicalが抜けてる感じ。
なんか、ゴチャゴチャーとしてたり、ただ並んでりゃいいんでしょ、だったり、あっちこっちに何でもかんでもつめこんじゃってたり、見てると楽しい気持ちが萎えちゃう。
ものすごく感覚的なことだけ言っているみたいだけど、でもそこにはかなり相当、根深い問題が隠れていると思う。日本のテクノロジーと、クリエイティブとは、まったく別個に歩んできてしまったのではないか。
それがなぜか、は別の機会に話すとして、iPadがぼくらに突きつけてくるのは、クリエイティブとテクノロジーは融合しなさい、仲良くしなさい、結婚しなさい、ということではないかと、ぼくは感じとっているんだ。
別の言い方をするとね、テクノロジーだけで作られたUIは、便利に見えて便利じゃないんだ。だって、美しくなきゃ便利じゃないんだもん。iPadが提示する世界は、美しいから便利なんだ。
例えばTwitterはそのネーミングから鳥の世界で彩られることが多い。注意喚起音に鳥のさえずりを使っているアプリが多い。あれが、プーとかピーとかただ電子的なだけの音だったら、それは便利だろうか?注意をうながす用途は足りてるかもしれないけど、楽しくない。楽しくない音は、便利ではない。ただ用途が足りているというだけだ。
iPadの画面の中では、そういう、便利なだけだと便利だと思えない。美しくなきゃ便利と感じとれない。だから、いろんなアプリの、アイコンが、操作画面が、音声が、どこか個性を持っていたりキュートだったりする。だからこそ、いじりたおしたくなるんだ。
さてここでようやく、上の図を見てください。もう画面のずーっと上の方に行っちゃったね。
iPadがそんな風に、美しさを求めてきた時、いちばん大事なクリエイティブ因子は何だろう?図に答えが書いてあるね。そう、アートディレクションだ。映像や音声、音楽が使われていても、最重要因子、すべてをまとめあげるのは、アートディレクションなんだ。これがまた新鮮というか、どこか本質的なことを突きつけられてる気がするところ。
例えば広告クリエイティブでは90年代以降、映像広告、つまりテレビCMが"主"だった。新聞広告やポスターなどは、映像のキービジュアルを一枚絵にしたもの、という、どこか"従”の立場だった。
あるいは、映像コンテンツの雄である映画は、よく"総合芸術"といわれて、すべてのクリエイティビティの頂点にある、ような語られ方を時としてされて来た。
ところが、iPadの画面上では、iPadコンテンツでは、映像も要素のひとつにすぎない。
だからグラフィックが"主"で、だからアートディレクションが大事だ、と言っているのでもない。グラフィックも映像と同じく要素のひとつにすぎない。でも全体の受皿は"アートディレクション"だと言わざるを得ないのだ。
別にね、世の中のアートディレクターの皆さんをヨイショしてるわけでもないよ。アートディレクションを、これまでのアートディレクターがやると決まってるわけでもないしね。ただとにかくどうしても、iPadを使って使いたおして、画面を見つめていると、ああ必要なのはアートディレクションなんだなあ、と感じてしまうのだ。
ありゃイカン、ここにたどり着くまでにえらく長くなっちゃった。そしてこの話はまだ全然終わっとらんとよ。というわけで、続きは明日ね。まだまだ、まだまだ、続きがあるのよ・・・
私はiPadはまだ使っていないが確かに従来の映像だけや、
電子書籍や雑誌的な表現だけでは面白くない、美しく無い、わくわく感が無い。
独創的なアプリを編み出して、斬新な振る舞いをするキャラクターが無限のパターンで、
見る人を虜にするクリエイテブを創造出来る様な、
ニュークリエイターと呼ぶ人材の輩出が今、強く望まれる。
媒体開発の立場の身でさえ、ひしひしとニーズを感じています。