心の平穏(PART 1 OF 3)
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哀れで愚かで孤独で可哀想な
太田将宏老人
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デンマンさん。。。、またオイラを呼び出したのですか?
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オマエは僕に会うのが嫌なのォ~?
だってぇ~、呼び出されるたびに いつでも、コテンコテンにデンマンさんに馬鹿にされるのでオイラは気分が落ち込んでしまうのですよ。
でも、今日はオマエの気分を高揚させるために呼び出したのだよ!
あれっ。。。 マジっすかあああァ~。。。
マジだよ!
わァ~~ うれしいなあああァ~。。。
デンマンさんがオイラの気分を
高揚させてくれるんだってぇ~。。。
オイラはすでにネットで有名になって
しかもデンマンさんのおかげで
オイラは日本語が分かる
122ヵ国のネット市民の皆様に
知れ渡ってしまいました。
海外からのアクセス
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『相変わらず馬鹿か?Denman Blog』
さらに、デンマンさんがオイラの気分を
ウハウハさせてくれると言うのです!
こうなったら、もうスキップしてしまおう!
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ワぁ~♪~ うれしいなあああァ~。。。
ルンルンル~♪~ン
ランランラ~♪~ン
もひとつおまけにィ~
ルンルンル~♪~ン
ランランラ~♪~ン
オイ!。。。オイ!。。。 そうやって無理してスキップしている場合じゃないだろう!。。。 ホレ!。。。 入れ歯が飛び出してるぞ!
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あふぁあふぁあふぁあふぁァ~。。。 フガァ~、フガァ~、フンガァ~。。。
オマエ!。。。 驚いてないでぇ~、早く、飛び出した入れ歯を拾ってはめろォ~~! んもおおおォ~♪~。。。 世話の焼けるジジイだなァ~♪~!
分かりました。。。 とにかく、オイラの気分を高揚させてください。
じゃあ、まず次の絵を見て欲しいのだよ。
二菩薩釈迦十大弟子
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左から普賢菩薩、目犍連(もっけんれん)、須菩提(しゅぼだい)、
優婆離(うばり)、舎利弗(しゃりほつ)、摩訶迦葉(まかしょう)
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羅睺羅(らごら)、阿難陀(あなんだ)、阿那律(あなりつ)、
富樓那(ふるな)、迦旃延(かせえん)、文殊菩薩
あれっ。。。 もしかして。。。、もしかして。。。、これは あの有名な棟方志功(むなかたしこう)の板画ではありませんか!?
その通りだよ! おまえも棟方志功のことを少しは知ってるんだねぇ~。。。
これでも早稲田大学の理工学部を卒業してますから。。。 うへへへへへ。。。 その程度の事は教養として心得てますよゥ。
それならば話は早いよ。。。 実は夕べ、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのだよ。
棟方志功の「板画」に、よく知られた「二菩薩釈迦十大弟子」というのがある。
昭和14年に制作されたものだが、戦後の昭和30年になってサンパウロ・ビエンナーレに出品され、最高賞を受賞した。
かれの名が国際的に知られるようになったのがそれ以後である。
十大弟子の方は、さまざまな表情をしたたくましい羅漢の姿が彫りだされているが、それにたいして文殊、普賢の二菩薩は、例の棟方流の、豊満で肉感的な女人像になっている。
かれはなぜ釈迦を彫らなかったのだろう。
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十大弟子といえば、その師は釈迦であるからだ。
その釈迦にかわってかれは、二菩薩をとりあげた。
菩薩なら、かれ好みの女人像に仕立てあげることができる。
それで釈迦を敬遠したのだろうか。
ともかく十大弟子のほかに女人の菩薩像をつけ加えたところが破天荒で、いかにも棟方志功らしい。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
62-63ページ
『日本人の情感はどこからくるのか』
著者: 山折哲雄
2003年5月9日 第一刷発行
発行所: 株式会社草思社
棟方志功はなぜ釈迦を彫らなかったのですか?
棟方志功は釈迦よりも もっと人間らしさを追及していたのだよ。。。
。。。と言いますと。。。?
つまり、上の板画を見ると、釈迦の弟子でありながら十大弟子たちは、まだ人生というものの悟りにいたってないわけだよ。。。
だから。。。?
だから、棟方志功は文殊、普賢の二菩薩とは対照的に 十大弟子たちの煩悩に苦しんでいる姿を生き生きと描き出したというわけだよ。
。。。で、その事がどういうわけでオイラの気持ちを高揚させるのですか?
あのさァ~、釈迦の十大弟子たちといえども、まだ人生の悟りにいたってはいない! だから、当然 オマエは70歳を過ぎているけれど、人生を悟っているわけがない!
オイラが、まだ人生を悟ってないという証拠でもあるのですか?
あるのだよ! オマエは次のように書いていた。
私は、この曲集を書き終えたとき、老人見習いから、正真正銘の老人になるのではないか、と思うこの頃である。
真の老人とは、もはや、失うべき何ものも無くなった人のことを言うのではないか。
長女は、私から去った。
次女は、中立を保つ為に、この家に寄りつかない。
家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなる。
私には、S.Kierkegaard の言った、一番易しく一番難しいこと、すべてを捨てること、が、案外、無理なくできるのではないか。
いや、その時には、捨てるべき何ものも見当たらなくなった境地であろう。
その意味では、老人になる前に、不慮の死で亡くなった人は気の毒である。
私は、若い時に、死ぬのはいいが風邪をひくのは嫌だ、などと言って、粋がって与太をほざいていた。
今も、願わくは、あまり苦しむことなく死を迎えられたなら、それにこしたことはない、と考えている。
Kierkegaard は、また、永遠とは有限が無限に出会う瞬間である、と言っていた。
私の人生に、かつて、そのような瞬間があったであろうか。
いや、それもまた、超越の命題であろう。
私の人生は、無明に迷ったそれに終わるのかもしれない。
しかし、私の背後には、母の祈りがあった。
ある麻薬中毒患者が、お母さん、僕は、こんな遠くまで来てしまった、と淋しげに呟いていたが、私は、麻薬中毒者ではないけれど、その気持ちが解かっている、と思う。
どのみち、人生は、rehearsal無しの、ぶっつけ本番なのである。
しかし、私は、F.M.Dostoevsky の「白痴」にある、あの「イッポリトの告白」に書かれているように、もし、生まれる前に、この条件を知らされていたとしたならば、私は、生まれるてくることを肯(がえ)んじなかったであろう、とは思っていない。
私は、感謝して死ねるように、今からでも、心の準備をしておこう。
S.D.G
コーダ(蛇足):
私の懐疑なるものが、深いのか、深くないのか、私自身も知る由もない。
仮に、深かったとしても、そもそも、懐疑の深さというものは、誇るべきものであるのか、という疑問が残る。
【デンマン注:】 改行を加え読み易くしました。あしからず。
S.Kierkegaard: キルケゴール (1813-1855) デンマークの哲学者
S.D.G.: Soli Deo Gloria (ラテン語) To God Alone the Glory(英語) 神に栄光あれ。
F.M.Dostoevsky: ドストエフスキー (1821-1881) ロシアの小説家・思想家
56ページ Michel-Richard de Lalande
『後奏曲集(後書きばかり)』 作品3
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年9月
『馬鹿やって人気?』にも掲載
(2015年8月18日)
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