デンマンのブログ

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女3人で姦しい (PART 1)

2017-12-05 10:58:16 | 太田将宏批判
 

女3人で姦しい (PART 1)

 


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デンマンさん。。。、どういうわけで“女3人で姦しい”というタイトルでオイラを呼び出したのですかァ~?


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あれっ。。。 オマエは“姦しい3人の女”に悩まされていたんじゃないのォ~?

デンマンさんは、どうしてそう思ったのですか?

だってぇ オマエはかつて、そのように書いていたじゃないかァ!

マジで。。。?

信じられないのだったら、オマエが“間奏曲集”として投稿した中の「ヘンリー・パーセル」に関する記事を見てごらんよ!


3.2 Henry Purcell (1659 – 1695)

長女が日本語の勉強をしながら、ひとり言を言っている。それも大声で。黙って聞いていると、次のようなことをしゃべっていた。
あれえ!安い、という字には女が入っているぅ。It’s not fair!…、だけど…、勇ましい、という字には男が入っている。じゃあいいか。
分かってないんだなあ、と思って説明を始めると、勇ましいというのは、やかましいということだ、と言張ってきかない。姦しいという字には、女が三つも入っているよ、と言って早々とひきあげたが、私は、良い父親であろうか。
家内を含めて、そうした女三人に囲まれて過ごしている私ではあるが、それでも女性(少女)ばかりで途惑う音楽作品がある。何と、コーラスを別にしても、七人のソプラノ、一人のメッツオ ソプラノと唯一人のバス バリトンによるオペラである。その作品は、H. Purcellの<<Dido and Aeneas>>である。この少女歌劇を第一級のオペラとすることには、私も異論、異存がないが、さて、それを聴く段になると、持て余してしまうのである。
日本も英国も島国である。後者は、世界を荒らし回ることに成功したが、前者は、結局は、失敗した。しかし、そんなことは、今、本質的なことではあるまい。もっと共通しているのは、ある種の感傷癖であろう。J. Dawlandの<<Lachrynae or seven Tears figured in seven passionate Pavans>>以来のsentimentalismのことを私は言っているのである。
次女は、Act I の<Harm’s our delight>>だとか、Act IIIの<Destruction’s our delight>のlibrettoを読んで笑っていた。今どき、女学生が感傷的だ、などと言ったなら笑いとばされるであろう。わが娘たちの世代が、Act IIIの<When I am laid in earth>を聴いて涙ぐむ、などとは私の想像の彼方である。ただ、ああいう素材を男子学生が上演しよう、などという発想は、現在に於いても、過去に於いても皆無である(あった)であろう、ということは考えられよう。
雄々しい、という言葉が何か肯定的であり、女々しい、という言葉に否定的な感触があるのは、性差別以外にも理由があるのではないか。例えば、boyishな少女には、それなりの魅力があっても、girlishな男について、何か異様なものを感じるのは、むしろ、我々の感性が健全であるからであろう。私は、やはり、人類の意識の中で、或いは、古代以来の無意識の中で、男の性を人の標準とする(した)事には、根拠がある(あった)と思わざるを得ない。
これを言うと、私の娘、特に長女は怒る。パパは二人の娘がありながら、と息巻くのである。標準は、標準であって、優越性は必ずしも意味しない、というようなことを言ってごまかすが、いまだ不満げな顔をしているのである。
このオペラでは、Sailorをソプラノが美しく唱っている。
この作品には、紛失した一曲を含めて、九曲ものダンスが入っている。それらの短い挿入曲は、学芸会の雰囲気をいやがうえにも盛り立てている。いわば、高級なお遊戯、とでもいった作品ではあるが、私としては、父兄でもないのにもかかわらず、ChelseaのJosias Priest’s Boarding Schoolに紛れ込んだような居心地の悪さを感じないわけではない。
言葉を変えて言えば、このオペラは、それほどまでに出演者、演奏家にそって書かれた職人芸としての傑作である、とも言えよう。
蛇足(コーダ):
家内についても何かを書かないと彼女が僻むかもかもしれないので一言:
―― 僕は、僕の曲をどのように弾いて下さっても構わない。やっぱり、それは演奏家のなかで自分自身を新めてぶつけるわけだから、それは、僕にとって嬉しいというほかの何ものでもない。ただね、例えば、三分十五秒にあるフレーズがあるとするでしょう。それは、やっぱり、始まってから三分十五秒という音楽的な体験を経てきたうえでなければ、絶対に演奏できないフレーズなんだな。その意味で、ここからここまでを取ってつなぐというやつ、あれは、どうしても、辛いね。―― 三善晃がレコーディングについて語った言葉である。
その通りであろう。そして、それは、聴き手にとっても同様である。愚妻には、これが解らない。この人は非常に不思議な人で、私が、今は家の中が静かだから音楽を聴こう、として聴き始めると、必ず(草子地:必ずである。)、二回からトコトコと降りてきて皿洗い等をし始めるのである。そして、音楽が一時中断された後には、どうしてそれが聴き続け難いのか、それを理解できかねるらしいのである。多分、Sokratesの奥方に近い人柄の女ではないか、と私は、密かに推察している次第である。
そういえば、Purcellは、夜、帰宅したときに、奥方の締め出しにあって、それがもとでの肺炎で死亡した、と伝えられている。男性は、女性よりも繊細である、ということか。




赤字はデンマンが強調)

41-42ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より




あのさァ~、いつも言うようだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やラテン語が入り混じっている。。。



デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。

それは、オマエの個人的な見解だと思うのだよ! 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!

 

海外からのアクセス@Denman Blog

 


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『葛飾北斎と太田将宏』@Denman Blog

 



134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?



いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。

マジで。。。?

僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。


3.2 ヘンリー・パーセル (1659 – 1695)


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長女が日本語の勉強をしながら、ひとり言を言っている。

それも大声で。黙って聞いていると、次のようなことをしゃべっていた。



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あれえ!い、という字には女が入っているぅ。

It’s not fair!…、

だけど…、ましい、という字には男が入っている。

じゃあいいか。




分かってないんだなあ、と思って説明を始めると、勇ましいというのは、やかましいということだ、と言張ってきかない。

姦しいという字には、女が三つも入っているよ、と言って早々とひきあげたが、私は、良い父親であろうか。

家内を含めて、そうした女三人に囲まれて過ごしている
私ではあるが、それでも女性(少女)ばかりで途惑う音楽作品がある。
何と、コーラスを別にしても、七人のソプラノ、一人のメッツオ ソプラノと唯一人のバス バリトンによるオペラである。
その作品は、ヘンリー・パーセルの歌劇<<ディドーとエネアス>>である。

この少女歌劇を第一級のオペラとすることには、私も異論、異存がないが、さて、それを聴く段になると、持て余してしまうのである。
日本も英国も島国である。
後者は、世界を荒らし回ることに成功したが、前者は、結局は、失敗した。

しかし、そんなことは、今、本質的なことではあるまい。
もっと共通しているのは、ある種の感傷癖であろう。

ジョン・ダウランドの<<Lachrynae or seven Tears figured in seven passionate Pavans(ジョン・ダウランドが作曲した楽器音楽の集まり)>>以来のセンチメンタリズムのことを私は言っているのである。
次女は、第1幕 の<害なす ことは われらが よろこび>>だとか、第3幕の<打ち壊す ことは われらが よろこび>の歌劇の歌詞を読んで笑っていた。
今どき、女学生が感傷的だ、などと言ったなら笑いとばされるであろう。
わが娘たちの世代が、第3幕の<私が地に横たわる時(歌劇「ディドーとエネアス」の17曲目)>を聴いて涙ぐむ、などとは私の想像の彼方である。

ただ、ああいう素材を男子学生が上演しよう、などという発想は、現在に於いても、過去に於いても皆無である(あった)であろう、ということは考えられよう。
雄々しい、という言葉が何か肯定的であり、女々しい、という言葉に否定的な感触があるのは、性差別以外にも理由があるのではないか。

例えば、男っぽい少女には、それなりの魅力があっても、女っぽい男について、何か異様なものを感じるのは、むしろ、我々の感性が健全であるからであろう。
私は、やはり、人類の意識の中で、或いは、古代以来の無意識の中で、男の性を人の標準とする(した)事には、根拠がある(あった)と思わざるを得ない。
これを言うと、私の娘、特に長女は怒る。
パパは二人の娘がありながら、と息巻くのである。
標準は、標準であって、優越性は必ずしも意味しない、というようなことを言ってごまかすが、いまだ不満げな顔をしているのである。

このオペラでは、船乗りの役をソプラノが美しく唱っている。
この作品には、紛失した一曲を含めて、九曲ものダンスが入っている。
それらの短い挿入曲は、学芸会の雰囲気をいやがうえにも盛り立てている。

いわば、高級なお遊戯、とでもいった作品ではあるが、私としては、父兄でもないのにもかかわらず、チェルシーのジョージアス・プリーストの寄宿学校に紛れ込んだような居心地の悪さを感じないわけではない。
言葉を変えて言えば、このオペラは、それほどまでに出演者、演奏家にそって書かれた職人芸としての傑作である、とも言えよう。

 

蛇足(コーダ):



家内についても何かを書かないと彼女が僻むかもかもしれないので一言:



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僕は、僕の曲をどのように弾いて下さっても構わない。
やっぱり、それは演奏家のなかで自分自身を新めてぶつけるわけだから、それは、僕にとって嬉しいというほかの何ものでもない。

ただね、例えば、三分十五秒にあるフレーズがあるとするでしょう。
それは、やっぱり、始まってから三分十五秒という音楽的な体験を経てきたうえでなければ、絶対に演奏できないフレーズなんだな。
その意味で、ここからここまでを取ってつなぐというやつ、あれは、どうしても、辛いね。




三善晃がレコーディングについて語った言葉である。
その通りであろう。
そして、それは、聴き手にとっても同様である。

愚妻には、これが解らない。
この人は非常に不思議な人で、私が、今は家の中が静かだから音楽を聴こう、として聴き始めると、必ず(草子地:必ずである。)、二回からトコトコと降りてきて皿洗い等をし始めるのである。

そして、音楽が一時中断された後には、どうしてそれが聴き続け難いのか、それを理解できかねるらしいのである。
多分、ソクラテスの奥方に近い人柄の女ではないか、と私は、密かに推察している次第である。

そういえば、ヘンリー・パーセルは、夜、帰宅したときに、奥方の締め出しにあって、それがもとでの肺炎で死亡した、と伝えられている。
男性は、女性よりも繊細である、ということか。




赤字緑字はデンマンが強調)

41-42ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より




つまり、上のように書くべきだとデンマンさんは主張するのですか?



そうだよ。。。 その方がクラシックを知らないネット市民の皆様にとっても読み易いのだよ! それに、こういう細かい事は言いたくないのだけれど、すぐ上の文中で赤字にした二回は、明らかに二階と書くべきだったのだよ!、

誰にだって、その程度の書き間違いはありますよ。。。 デンマンさんだって、時々 書き間違ってますよ。。。

確かに、書き間違いは誰にでもある。。。 でも、僕は最低でも3度は自分の書いた記事を見直すのだよ。。。 だから、書き間違いは極めて少ないはずなんだよ。。。

オイラの書き間違いが多いとデンマンさんは言いたいのですか?

それよりも、そもそも、オマエの文章は下書きの段階で ネットで公開しているのだよ。。。

それは、デンマンさんの個人的な意見です。。。

いや。。。 オマエの上の下書きを見せられた「ボイジャー」社長の鎌田純子さんも、下書きに違いないと思って掲載を断わったのだよ。。。 それなのに、オマエは自分の欠点を棚に上げて 「ボイジャー」の社長に次のように文句を言っている! 


太田将宏著作集 (E-Book Mode)



告発状以下の筆者自身の著作がボイジャー、ロマンサー(社長:鎌田純子)の一方的な暴挙で読めなくなりました。

その一切の経過につき、筆者の告発文書、<<ボイジャー、ロマンサーへの抗議録>>を
上の告発状をclickして御参照願います。




Ⅰ あれかこれか

哲学 (実践知性批判、Sartreを中心に)、

神学(純粋意識批判、Kierkegaardを中心に)




Ⅱ 愛と生命の摂理

文学(ドストエフスキーを中心に)




Ⅲ 前奏曲集 第一集

音楽(あるアマチュアの覚書、(批評の批評 ⅰ)




Ⅳ 前奏曲集 第二集

音楽(私はアマチュアである、(批評の批評 ⅱ)




Ⅴ 間奏曲集

音楽(主題なき変奏、(言葉と音楽 ⅰ)




Ⅵ 後奏曲集

音楽(後書きばかり、(言葉と音楽 ⅱ)




Ⅶ 瞬間

書簡集




『EBOOK MODE』より

『失意の太田将宏』にも掲載
(2015年12月12日)




オマエは太田将宏の著作がボイジャー、ロマンサー(社長:鎌田純子)の一方的な暴挙で読めなくなりましたと書いたけれど、重要な2つのことでオマエは間違いを犯している。



その重大な 2つの間違いとは、いったい何ですか?

まず、オマエは“著作”と書いているけれど、オマエの書いたものは“下書き”なのだよ!。。。 作品というには程遠い。。。 「ヘンリー・パーセル」についての文章を見れば一目瞭然なのだよ!

やっぱり、日本語が理解できる人のために解り易く できるだけ日本語で書くべきですか?

当たり前だろ! 普通のネット市民の皆様が読むようには書かれてない! 英語の単語がやたらに散りばまられて、しかも、似非ドイツ語や、似非ラテン語までが注釈なしに散りばめられている。。。 極めて読みづらい。。。 改行がなく、やたらに長い持ってまわった言い回しになっている。。。 オマエの文章を見ると読む気がしなくなるのだよ!

。。。で、2番目の重大な間違いとは。。。?

だから、すでに言ったように、オマエは自分の欠点を棚に上げて 「ボイジャー」の社長に文句を言っている! 悪いのは 「ボイジャー」の社長じゃなく、オマエの未熟な“下書き”なのだよ!  「ボイジャー」の社長は当然のことをしたまでだよ! オマエの“下書き”はネット市民の皆様に公開されるには 未熟で未完成なのだよ!

それは、デンマンさんの個人的な意見ですよ!

僕の個人的な判断じゃなくて、現に 「ボイジャー」の社長の鎌田純子さんが掲載を拒否したのだよ! 当然のことだよ! しかも、止せばいいのに、僕に対する抗議文までネットで公開している!


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『実際の抗議録』



つまり、オマエは、文章の中だけじゃなくて、どこへ行っても人間関係を破綻に導いているのだよ!



要するに、オイラは反省が足りないので家族関係も破綻していると言いたいのですか?

その通りだよ! オマエは「(私の家内は)ソクラテスの奥方に近い人柄の女ではないか、と私は、密かに推察している次第である」と書いている。 しかも、「姦しいという字には、女が三つも入っているよ、と言って早々とひきあげたが、私は、良い父親であろうか。 家内を含めて、そうした女三人に囲まれて過ごしている」とも書いている。。。 つまり、うるさい女3人に囲まれて騒々しい人生を送っているという被害妄想に陥っているのだよ!

そうでしょうか?

当たり前だろう! それが理解できないので、オマエは女性系家庭で孤立してしまうのだよ!




私は、この曲集を書き終えたとき、老人見習いから、正真正銘の老人になるのではないか、と思うこの頃である。
真の老人とは、もはや、失うべき何ものも無くなった人のことを言うのではないか。

長女は、私から去った。
次女は、中立を保つ為に、この家に寄りつかない。
家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなる。


私には、S.Kierkegaard の言った、一番易しく一番難しいこと、すべてを捨てること、が、案外、無理なくできるのではないか。
いや、その時には、捨てるべき何ものも見当たらなくなった境地であろう。

その意味では、老人になる前に、不慮の死で亡くなった人は気の毒である。
私は、若い時に、死ぬのはいいが風邪をひくのは嫌だ、などと言って、粋がって与太をほざいていた。
今も、願わくは、あまり苦しむことなく死を迎えられたなら、それにこしたことはない、と考えている。


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Kierkegaard は、また、永遠とは有限が無限に出会う瞬間である、と言っていた。
私の人生に、かつて、そのような瞬間があったであろうか。
いや、それもまた、超越の命題であろう。

私の人生は、無明に迷ったそれに終わるのかもしれない。
しかし、私の背後には、母の祈りがあった。

ある麻薬中毒患者が、お母さん、僕は、こんな遠くまで来てしまった、と淋しげに呟いていたが、私は、麻薬中毒者ではないけれど、その気持ちが解かっている、と思う。
どのみち、人生は、rehearsal無しの、ぶっつけ本番なのである。

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しかし、私は、F.M.Dostoevsky の「白痴」にある、あの「イッポリトの告白」に書かれているように、もし、生まれる前に、この条件を知らされていたとしたならば、私は、生まれるてくることを肯(がえ)んじなかったであろう、とは思っていない。
私は、感謝して死ねるように、今からでも、心の準備をしておこう。

S.D.G

コーダ(蛇足):

私の懐疑なるものが、深いのか、深くないのか、私自身も知る由もない。
仮に、深かったとしても、そもそも、懐疑の深さというものは、誇るべきものであるのか、という疑問が残る。




【デンマン注:】 改行を加え読み易くしました。あしからず。

S.Kierkegaard: キルケゴール (1813-1855) デンマークの哲学者

S.D.G.: Soli Deo Gloria (ラテン語) To God Alone the Glory(英語) 神に栄光あれ。

F.M.Dostoevsky: ドストエフスキー (1821-1881) ロシアの小説家・思想家




56ページ Michel-Richard de Lalande
『後奏曲集(後書きばかり)』 作品3
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年9月

『馬鹿やって人気?』にも掲載
(2015年8月18日)




デンマンさん! いったい何度この手記を引用すれば気が済むのですかァ~?



あれっ。。。 オマエは覚えてるのォ~?

覚えてますよう! これまでに上の手記をデンマンさんは何度も何度も記事の中で引用したのですよ!

とにかく、オマエは性格的に人間関係をうまくやってゆくことができないのだよ。

そのように決め付けないでください。。。

とにかく、これからは長女と次女と心優しい奥さんの言う事に素直に耳を傾けて、反省しながら、仲良く暮らすことだよ!



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 (すぐ下のページへ続く)

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