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元寇と捕虜 (PART 1)

2018-05-10 10:58:08 | 歴史四方山話
 

元寇と捕虜 (PART 1)

 


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デンマンさん。。。 今日はどういうわけで 遠い昔のお話をするのでござ~♪~ますか?


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卑弥子さんは不満なのですか?

不満というほどのことは ござ~ませんけれど、そんな昔のお話をしても興味のないネット市民の皆さんが多いと思いますわァ~。。。

あれっ。。。 卑弥子さんは京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのですよねぇ~。。。

そうですわ。。。 つまり、あたくしも遠い昔の物語を女子大学で教えている、とデンマンさんは言いたいのですか?

そうです。。。

でも。。。、でも。。。、あたくしの場合は世界的に有名な『源氏物語』ですわよう。。。 元寇と捕虜とは格調が違いますわァ~。。。

あのねぇ~、格調が高いとか低いかは問題じゃないのですよ。。。 常識として、歴史的な事件も知っておいた方がいいのですよ。。。

そのために、わざわざ「元寇」を急に取り上げることにしたのですかァ~?

いや。。。 実は、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのです。。。


建徳 (1370-1372)


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試用期間: 約1年8ヶ月

読み方: けんとく

天皇: 長慶天皇

主な出来事:

1) 建徳元年3月 明使趙秩、日本に向かい、ついで懐良親王に国書を呈する。

2) 建徳2年9月 懐良親王の使僧祖来、明に到り、表箋を呈し、捕虜70余名を返す

 


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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




452ページ 『日本年号史大事典』
編著者: 所 功 
2014(平成26)年1月25日 初版発行
発行所: 株式会社 雄山閣




デンマンさんは『日本年号史大事典』を小説のように読んだのでござ~ますかァ?



そうです。。。 いけませんか?

別にかまいませんけれど、たとえば『広辞苑』を小説のように最初のページから最後のページまで読む人はいないと思いますわァ~。。。

それは、卑弥子さんの独断と偏見なのですよう。。。。 歴史事典オタクもいれば、広辞苑オタクもいれば、JR時刻表オタクもいるのですよう。。。 このような人たちは事典や辞書や時刻表を小説のように愛読するのです。。。 僕も、1ヶ月ほど前にバンクーバー市立図書館で上の事典を借りて、すべてのページを初めから終わりまで丁寧に読んだのですよ。。。

マジで。。。?

信じてください。。。 昔の人は“信じる者は救われる!”と言ったのだから。。。

分かりましたわ。。。 世の中には、そういう奇特な変わり者がいるのですわねぇ~。。。 で、デンマンさんは「建徳2年9月 懐良親王の使僧祖来、明に到り、表箋を呈し、捕虜70余名を返す」という箇所が気になったのですか?

その通りですよ!

どうして気になったのですかァ~?

あのねぇ~、明に行って捕虜70余名を返すと言うのだから、当然のことだけれど、戦争で捕虜になって日本に留まっていた捕虜がいたわけですよ。

そうでしょうねぇ~。。。

だとしたら、この当時、日本が海外の国と戦争をしたのは、元が日本に攻めて来た「元寇」の時しかないでしょう!?

そうですわねぇ~。。。

でも、時間的に問題があるのですよ。。。 「元寇」は2度あった。。。 


元寇


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元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。

1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。

蒙古襲来とも。

特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった。

主に九州北部が戦場となった。




出典: 「元寇」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




何が問題なのでござ~ますかァ?



「弘安の役」は1281年に起こったのです。。。 もし、その時に捕虜になった中国人がいたとしたら、明に送り返される建徳2年9月には、西暦では1371年9月には、少なく見積もっても90歳を越えているのですよ。。。 そういう人たちが70人以上も居たというのは考えられない!

つまり、その捕虜と言うのは「元寇」の時の捕虜ではないと言うのですわねぇ~?

その通りです。。。

でも。。。、でも。。。、「元寇」のあとで海外と戦争をしたのは豊臣秀吉(1537-1598)だけしかいませんわよねぇ~。。。

普通に考えたら、そういうことになります。。。

普通に考えないと、その間にも海外と戦争したことがあるのでござ~ますか?

あるのです。。。 「倭寇」と呼ばれるのがその“海外戦闘行為”ですよ。。。


倭寇


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明朝と南北朝と前期倭寇

 

中国では1368年に朱元璋が明王朝を建国し、日本に対して倭寇討伐の要請をするために使者を派遣する。

使者が派遣された九州では南朝の後醍醐天皇の皇子で征西将軍宮懐良親王が活動しており、使者を迎えた懐良は九州制圧のための権威として明王朝から冊封を受け、「日本国王」と称した。

その後幕府から派遣された今川貞世により九州の南朝勢力が駆逐され、南朝勢力は衰微し室町幕府将軍の足利義満が1392年に南北朝合一を行うと、明との貿易を望んだ義満は、明に要請されて倭寇を鎮圧した。

倭寇鎮圧によって義満は明朝より新たに「日本国王」として冊封され、1404年(応永11年)から勘合貿易が行われようになる。

朱元璋は、福建に16個の城を築城して1万5千の兵と軍船100隻をおき、浙江には59の城を築城して5万8千の兵をおき、広東に軍船200隻をおいて防備を固めた。

 


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出典: 「倭寇」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




つまり、日本人の海賊が朝鮮や中国の沿岸部を荒らしまわったのですわねぇ~。。。?



でもねぇ~、上のクリップを見れば分かるように 倭寇海賊10人のうち日本人は3人程度で、あとの7人は中国人を含めた外国人だったと言うのですよ。

。。。で、1368年に朱元璋が明王朝を建国し、日本に対して倭寇討伐の要請をするために使者を派遣したのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。 使者が派遣された九州では南朝の後醍醐天皇の皇子で征西将軍宮懐良親王が活動しており、使者を迎えた懐良は九州制圧のための権威として明王朝から冊封を受け、「日本国王」と称したのですよ。。。

その返礼として、捕虜70余名を返すことにしたわけでござ~ますか?

そういうことです。。。

。。。で、その捕虜というのは懐良親王が手下に命じて捕まえた中国人の海賊たちですか?

そういう者たちもいたでしょうねぇ~。。。 それと、たぶん中国沿岸で拉致されて人質とされたり、奴隷として売られる羽目になった中国人もいたことでしょう。。。

。。。で、中国では、それほど倭寇に悩まされていたのでござ~ますか?

そうなのですよ。。。 日本人にとって“倭寇”と言うのは、“元寇”と比べたら あまりなじみのない言葉だけれど、中国では被害にあった人たちがたくさん居たから“倭寇”は有名なのです。。。 だから、今でも映画になっているくらいです。。。




倭寇的踪迹

 

(倭寇だと見て追跡する)

    (2011年中国作品)

 

1604年、明代中国のとある街。
ここを治めているのは、高度な武術の伝統を、それぞれの武器と型で守る名門四家。
ここで新たな流派を開こうとする者は、四大道場に闘いを挑み全てに勝利しなければならない。

ある日、この街に異様な長刀を携えた剣士2人が現れ、あっという間に道場の剣士たちを倒してしまう。
2人はこの新たな長刀を使った究極の剣術道場を開くつもりだった。
しかし彼らを受け入れたくない道場主たちは、その長刀を日本刀だと言い張り、二人を倭寇だと決めつけ、弓矢の大部隊に追わせる…。

 


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一人は負傷し捕えられるも、もう一方の剣士は、外国女の踊り子が働く商売船に逃げ込む。
船を包囲する四大道場の精鋭たち。
踊り子の運動能力を見極めた彼は、武芸の達人でも扉の後ろから一振りで倒すことの出来る究極の棒術を彼女に伝授する。

剣士を仕留めようと船に近づく武芸家たちを踊り子が棒術で翻弄する間に、彼は捕えられた仲間を救い出すべく船を脱出し街に侵入する。
一方、長年世を捨て山に籠っていた四大道場の長老チウが、彼らの出現を知り、ついに街に下りてくるのだった……。




明の時代でも後期の話ですよ。。。 日本では江戸時代になりかけている頃です。。。



その頃でも倭寇が居たのですか?

“倭寇”という名前は当時の中国人ならば、誰でも知っていたけれど、かつてのような大掛かりで華々しい海賊行為は、もうなくなっていた。。。 ただ、それまでの名残が上の映画の中にも出ているのですよ。。。

例えば。。。?

倭寇鎮圧によって室町幕府3代将軍の足利義満は明朝より新たに「日本国王」として冊封され、1404年(応永11年)から勘合貿易が行うのだけれど、この時の輸出品の日本刀が中国では人気があった。。。

日本刀がでござ~ますかァ?

そうなのですよう。。。 現在で言えば、日本人がベンツに乗るようなステイタス・シンボルになっていた。

それで、上の映画では日本刀だと言い張り、二人を倭寇だと決めつけたのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。



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 (すぐ下のページへ続く)







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