デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

母なる言葉を奪われたアイヌ人 PART 1

2006-06-27 10:34:17 | 日本史



母なる言葉を

奪われたアイヌ人



おほほほほ。。。。

デンマンさんが
出ろっつうんでぇ~
また、出てまいりましたのよ!

そうなんですのよ。
アイヌの人たちは
母なる言葉を
明治政府から
奪われてしまったのですよ。

こういう事は絶対にしてはならない事でござ~♪~ますよ。

ちょっと考えてみてくださいな。

太平洋戦争に日本が負けて
アメリカに占領されました。

あなたもきっと驚くと思いますが、
なんと、戦争に負けた1945年から
1952年までの7年間、
占領時代が続いたんでござ~♪~ますのよ。

この間に、もし日本語を使う事が禁止されたら
どのような事になっていたか?

万葉集は読めなくなる。
日本史もなくなる。
古文の授業もなくなる。
俳句や短歌も作ってはダメと言う事になる。
日本語の歌謡曲も演歌もなくなる!

日本の文化は消滅させられたはずです。
おそらく、デンマンさんはエルビスプレスリーのロックを子守唄として育てられたでしょうね。
日本語を話すことができず、英語がぺらぺらになっていたでしょうね。

現在のデンマンさんは、苦労して英語を勉強しましたが、
まだぺらぺらではござ~♪~ませんのよ!
うひひひひ。。。。

でもね、そういうひどい事を明治政府がアイヌの人たちにしたんでござ~♪~ますのよ。
アイヌ語を使うと厳しく罰せられた!
アイヌの子供たちは日本人として日本語を使って育てられた。

中には、自分がアイヌ人ではなく、
日本人だと信じていた子供もいたほどです。
アイヌ人差別にあうので、両親が隠れて暮らし、
子供たちにアイヌ人だということを隠していたのです。

これは、アイヌ人を生かしたままジェノサイドをしたようなものですよね。
デンマンさんが書いていたように
1979年にはアイヌ語が話せる人が10人ぐらいに減ってしまったのでござ~♪~ますのよ。

ふんと~♪~に、ひどいことをしたものでござ~♪~ますわねぇ~。
あたくしも、平安時代に生まれた大和撫子として責任を感じておりますことよ。

では、デンマンさんにバトンタッチしたいと思います。
おほほほほ。。。。。




卑弥子さん、いつもながら面白い表情を見せて紹介してくれてありがとう。
では、初めて読む人のために、言葉を奪われたアイヌ人の人たちの嘆きをここに引用したいと思います。


アイヌ語を奪われたアイヌ人



イランカラプテ。
この言葉を教わったのは、農家に嫁ぎ、二風谷のアイヌ語教室に通っている女性からだった。

「あなたの心にそっと触れさせて下さい」

そんな慎ましやかな意味をもつ言葉をアイヌは挨拶のときにかわす。
和語の「はじめまして」と同じように、である。
私には「イランカラプテ」がアイヌ語との最初の出会いだったけれども、
アイヌの、心の奥行きを見たようだった。

私は数ヶ月ぶりにアイヌ語教室を訪ねた。
開講して11年目を迎えたアイヌ語教室・子供の部に、
今年はちょっとした出来事があったと聞いた。

久しぶりの教室には、自分たちの想い出がつまったビデオを見る子供たちの騒がしい声に包まれていた。
「ああ、あの人だ!」と誰かが画面を指さして、皆の歓声が「爆発」する。
ビデオには、五月の連休にカナダの先住民を訪ねたとき、そこで出会った人たちが映っている。

先住民として、誇り高く生きる人々。
子供たちは、その生きざまと暮らしに触れて帰ってきた。

ここに来ているアイヌの生徒たちは、アイヌ語を母語として受け継ぐことはなかった。
母語とは、母が子に乳を与えるように、周囲に囁きかけられながら、知らず知らずのうち身につけていく言葉だとすれば、高齢者でも、母語・アイヌ語を獲得した人は、少ない。

「滅びゆく言語」と、実際を無視していわれた時期があった。
言葉をここまで追いつめた歴史を辿ると、アイヌ自身が自ら言葉を放棄せざるをえないほど、有形無形の社会的な圧力が存在していたことがわかる。

明治政府はアイヌから一方的に生きる基盤を奪い、彼らが貧窮してもそのまま「放置」していた。
だが、天皇制国家である以上、その子弟は「教育」し、皇民化しなければならない体面もあった。
「教育」とは民族の否定、同化を指向した。

アイヌ集落に建てられた「旧土人学校」は、アイヌに多大な影響を及ぼした。
「アイヌの言葉を喋ると、先生にひどく叱られた。
殴る先生がとても恐かった」と、ある老人は当時を語る。
また、アイヌ系児童の成績が良いと、「アイヌのくせに、そんなにできるはずはない」と叱り、シャモの子には、「アイヌでさえできるのにお前達はなぜできない!」と教師が渇を入れたとも聞いた。

子供たちは出口のない袋小路にいた。ひたすら、民族の誇りを奪われ、劣等感を植えつけられていく。

「悲しむべし今のアイヌはアイヌをば
 卑下しながらにシャモ化してゆく」

そう歌ったのは、昭和4年、27才で逝ったアイヌの歌人、違星北斗である。
容赦のない、同化への圧力が働いていた。
目には見えない、凍りつくような差別の空気。
真綿で首をしめていくような重たい圧迫感。

父や母、祖父母たちもアイヌのことを伝えられない。
口をつぐむぎ、わが「血をうすめる」ことが子供の幸せと考えるほかなかったからだ。
母語の灯は、自らの吐息で一つ一つ、ふき消されていった。

『イランカラプテ』より


当時の明治政府はアイヌ人同化政策のためにアイヌ人からアイヌ語を奪ってしまったんですよね。
同じような事を明治政府は台湾人、それに当時の朝鮮人に対してもしたんですよね。
明治政府が推し進めた“義務教育”は昭和になってから
日本が“経済大国”になる原動力になったけれど、
その影で民族の言葉を奪われてしまったアイヌ人が居たわけです。

このようなことは2度としてはならない事ですよね。

ところで、僕が6月25日にRealogで書いた記事(『平和を愛し仲良く暮らしていた古代日本人 PART 2』)に、しばしばコメントを書いてくれている更紗さんから次のようなコメントをもらいました。
いつものことですが、ありがとね。



セクソロジストの高橋鉄(1907~1971)は、
当初は小説家を目指していたにもかかわらず、
アイヌ人を主人公にした短編小説が
発禁処分になってしまい、
それ以来、小説を書くことをやめてしまったそうです。

絵本や児童書ならアイヌ関係の本は結構残っているのに、
昔はアイヌ人が主人公のフィクションは
発禁処分だったなんて想像もつかず、
ちょっとショックでした(>_<)

by 更紗 2006/06/26 13:27

更紗さんはRealogのメンバーではありません。
彼女のブログは次のリンクをクリックすると読めますよ。
『更紗のタペストリー』


僕はさっそく次のような返信を書きました。



おおおお~~~更紗さん、
ちょうど良い時にコメントを書いてくれましたよ。
ありがとう!

あさって28日の題材はすでに決まっているんですよ。
真新主さんがレンゲさんの記事にコメントを書いてくれたので何を書くか決まったんですよ。

さて、明日何を書くかと考えていたところ、
更紗さんのコメントの通知をメールで見ました。

これで、明日27日の記事の題材が決まりました。
また更紗さんのコメントを使わせてもらいますよ。ありがとう。

僕は高校生の頃にフロイトの本を読んで精神分析にかなり興味を持ちましたが、
その関係で高橋鉄さんの本もかなり読みましたよ。

しかし、更紗さんのコメントを見るまで1971年に亡くなっている事を知りませんでした。
亡くなってはいるかもしれない。。。とは思いつつも、
まさか30年以上前に亡くなっていたとは。。。?
ちょっと驚きでした。

そうですよね。
高橋鉄さんは日本のセクソロジーの草分け的な存在でしょうね。
懐かしい名前を見ましたよ。

アイヌ人を主人公にした短編小説を高橋鉄さんが書いていたなんて全く知りませんでした。
それも驚きですが、アイヌ人を主人公にした短編小説が、
ただそのことだけのために発禁処分になると言うのも驚きですよね。

とにかくアイヌ人は大和朝廷の頃から不当な差別を受けてきたんですよね。
現在アイヌ語は復活したようですが、
Barbara Aoki Poissonという日系アメリカ人の書いた本
“First Peoples The Ainu of Japan”
を読むと、1979年には、アイヌ語を話せる人が、たったの10人程度だったそうですよ。

25日の記事(『平和を愛し仲良く暮らしていた古代日本人』)の中で引用したように、
アイヌ文化を残そうと言う人たちが現れてアイヌ語がまた息を吹き返してきたということはすばらしい事ですよね。

世界史を見ると過去にも、このような政府や時の実権者の差別政策によって
たくさんの言語が消滅しているんですよね。
つまり、その言葉でのみ記憶された歴史が、
その言語と共に消滅してしまったと言うことですよね。

人類の歴史の一部が欠けているということですよね。
こう言う事を繰り返さないためにも、
絶対に他の民族の文化を消滅させてはいけないことなんですよね。

人間として、自分の首を自分で絞めていることですからね。

他民族といえども、人間として、絶対にジェノサイドをしてはならないですよね。

とにかく、更紗さん、コメントありがとう。
またインスピレーションが湧いてきましたよ。
じゃあね。
時間があったら、明日の記事を読んでくださいね。
バ~♪~イ。

by デンマン 2006/06/26 14:43

『平和を愛し仲良く暮らしていた古代日本人 PART 2』のコメント欄より


戦争と言う狂気の中の良識

ここで話しはガラット変わりますが、アメリカ占領軍がなぜ明治政府がやったような“文化的ジェノサイド”をしなかったのだろうか?
このことを突き詰めるために、僕は原爆と京都との関係を調べ始めたのです。
おそらく、かなりの人が知っていると思いますが、京都は空襲も原爆も免(まぬが)れた日本の文化都市、古都です。

京都を空襲から免れさせたのはワシントンに居た当時の日本文化愛好家が、戦争遂行関係者に文化都市京都を戦災から守るべきだ、と説得して回ったという事実があったことを僕は歴史書で読んだ事がありました。
それを確認するためにネットで調べ始めたというわけです。

そうしたら、とんでもない書評にぶち当たったのです。
次に引用します。


『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』
吉田守男 朝日文庫 ISBN4-02-261353-X

「太平洋戦争時、京都や奈良が空襲を受けなかったのは、
古い寺社などの文化財が多かったため、
アメリカが攻撃を控えていたからだ」
...という説を、あまり疑いもせず子どもにも教えていました。

山田克哉『原子爆弾(講談社ブルーバックス)』を読んで、京都が原爆の標的として上がっていたのを知っていたにもかかわらず、です。
全くもって不明のいたりです。

筆者は、アメリカ側のぼう大な資料や、どこがどれだけ爆撃を受けたかという日本側の資料を引き、

「京都が爆撃を免れたのは、原爆を落とすターゲットとして保護されていたからである」

...という自説を証明します。

では、奈良や鎌倉の場合は? 
これも明快に、

「軍事施設のない都市はほぼ人口の多い順に爆撃を受けていたが、
奈良や鎌倉は人口の少ない小都市だったから」

当時の人口(約5.7万人)から考えて、
もう少し終戦が遅ければ奈良は爆撃を受けた可能性が高いそうです。

ではなぜ、デマがもっともらしく吹聴され、現在まで信じられてきたのか。
それは、戦時中に京都市民の間で実際に流れた

「大都市のなかで京都だけ空襲を受けていないのは、
名所旧跡が多いせいだ」

...といううわさに、アメリカや御用学者が乗っかって広めたから。

同様なうわさが横浜・長崎(古くから外国とつきあいの深い港町だから)や広島(アメリカ本土には広島からの移民が多かったから)でも流れていたのは、自分の所だけは安全だと信じたい祈りのような心理が働いたからだろう、それがデマに過ぎない証拠に、横浜は大空襲を受け、広島・長崎は原爆を落とされた。
京都は、もう少しで原爆か大空襲を受けるというところで戦争が終わったために、デマまで生き残ってしまったのだ。

『黒推薦図書リスト』より
注: 読みやすく写真を加え、改行して大幅に構成を変えています。
   もちろん、内容には手を加えていません!


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