【人に会わない道をたどってみる】

【人に会わない道をたどってみる】

四国山中には難病にかかってしまった人たちが、なるべく人に会わないよう、ひっそりと用いる道があったという。宮本常一がそういう「かったい道」で出会った老婆の話を書いていた。病いは人の心を鬼にする。

2021 年 8 月 4 日、新型コロナウィルス禍の東海道を往復して静岡まで会議に行ってきた。
なるべく人に会わない交通機関と時間帯を選んだら往復とも電車はガラガラだった。

10:01
新宿発小田急線快速急行小田原行に乗車


DATA: Nikon COOLPIX S1 小田急線内

11:48
小田原発東海道線熱海行に乗車


DATA: Nikon COOLPIX S1 熱海駅にて

12:35
熱海発東海道線島田行に乗車


DATA: Nikon COOLPIX S1 熱海駅にて

清水駅から駅前銀座、中央銀座、清水銀座を経て稚児橋まで歩く。


DATA: Nikon COOLPIX S1 水曜日なので商店街は無人

稚児橋から入江岡駅まで歩いてしずてつ電車で新静岡まで。


DATA: Nikon COOLPIX S1 入江岡無人駅

1時間半の会議に参加する。

17:57
静岡発こだま738号東京行に乗車


DATA: Nikon COOLPIX S1 多摩川を渡って都内に戻る

結局、東京駅から駒込駅まで乗った山手線だけが密だった。

 

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【無人島の一冊】

2020年5月20日

【無人島の一冊】

たくさんの人が家庭内に逼塞して生活しているせいか、朝刊のサンヤツに、無人島に一冊持っていきたい本として般若心経の広告を見かけるようになった。おもしろい傾向だと思う。

随分前だけれど、健康診断に引っかかって都立駒込病院で精密検査を受けたとき、このまま緊急手術や入院になって自宅に帰れなくなるとしたら、持っていく一冊は何がいいだろうと思い、民俗学者宮本常一を持っていった。さいわいに何事もなかったので宮本常一はあらかた読んでしまった。

いま無人島に行ってゴロゴロしながら読むのだったら、溝の口で友人たちと飲んだ際、線路側の小さな古書店で買った岩波新書『橋と日本人』上田篤を持って行きたい。名著だからというわけではなく、地味におもしろいのでパソコン脇に置いてちびちび大事に読んで、読みかけになっているからだ。橋の話を島で読むのもいいい。

この人の本は何冊か持っていて、細かい主義主張は別にして総合的には好きだ。思想の骨格が頑固なので色々な角度から色々に楽しんでも揺るがない。無人島に行ったきりではなく一時的に自由な島流しなら、よいポケットの中身かもしれない。

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◉終わりの仕事

2018年11月2日(金)
僕の寄り道――◉終わりの仕事

11 月 1 日、病院訪問を挟んで午前午後とに分け、やがて来る母親見送りの準備をする妻に付き添い、斎場と葬儀社まわりをした。気の晴れるような秋空が広がる一日でよかった。

近所の小さな葬儀社に入って年配のご主人に話を聞いた。《大手》でないのは初めてなので、ちょうどいま読みかけている宮本常一『生きていく民俗 ――生業の推移』(河出文庫)とひとつながりの読書をするようだ。

葬儀をめぐって働く人たちの《名前》が出てくるたびに、宮本常一のいう《生業》の意味を思い出し、はるか昔から葬送の業を担った人々の社会的役割りが現在まで綿綿とつながっていることを実感した。

患者が《負の退院》をすることにおける、病院と葬儀社の見えない部分での関係と歴史について学ぶことも多い。
「そういうことをお話しするのに《》という言葉はご存知ですか」
と聞かれて
「はい」
と答え、隠れて見えない大事なことを知る。人の死に携わる人たちしか知らないこともある。葬送は親が遺してくれる最後の学びの場かもしれない。

相談を終えて礼を言い、表通りに出ようとしたら
「すっかり暗くなっちゃいました」
とご主人が言うので
「本当に、日が短くなりましたね」
と答えた。

(2018/11/01)

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◉熊野町

2018年10月28日(日)
僕の寄り道――◉熊野町

広島県安芸郡熊野町にある特養ホームに遊びに行ったことがある。施設長が広島駅前まで迎えにきてくれたので自動車で行ったけれどずいぶんな山中だった記憶がある。四方を山に囲まれた盆地で、熊野川が流れていた。宮本常一『生きていく民俗 生業の推移』河出文庫を読んでいたらその熊野町の話が出てきた。

広島の熊野には樽づくりに用いる樽板を切り出す技能者が多く暮らしていて樽丸師といった。樽板は人力で山中から運び出すので、それを背負う若い女連れで樽丸師たちは紀州熊野まで出稼ぎをしていた。それが縁で熊野の地名が広島にあるらしい。なるほど。

(2018/10/28)


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◉笈(おい)

2018年10月22日(月)
僕の寄り道――◉笈(おい)

「竹」かんむりの下に 「及」と書いてなんて読むんだっけと辞書を引いたら「おい」で漢字は笈と書く。読みかけていた宮本常一(『生きていく民俗 生業の推移』河出文庫)を開いたら読みかけたしおりの位置は「◉捨聖」という小見出しの位置だ。一遍である。

笈とは修験者や行脚僧が仏具・衣類・食器などを入れて背負って旅した脚付きの箱で、時宗の僧が背負っていた笈がやがて千駄櫃(せんだひつ)にかわって大衆化し、遠距離行商の形として定着したということが書かれている。

宮本常一のこの箇所を読んで一遍上人に関する本に脱線したのかもしれない。今朝ちょうど雑誌『Bricolage』の次号に「コロブチカ」と題した原稿を書き上げて校正に出したところだ。フォークダンス曲タイトルで馴染み深いコロブチカは、ロシアの行商人が背負っていた箱のことである。タイムリー。

(2018/10/22)


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◉みやげ話

2018年9月9日
僕の寄り道――◉みやげ話

 

かつて高知県南部には、耕地を持たない山地農民が育てた牛を、牧養地を持たない平地農民の農繁期に貸し出す仕組みがあり、米でその借り賃を払った。山地農民はそれによって米を食することができた。

手土産にする酒のつまみを買いに出た東武野田線大和田駅

平地の村では牛を返すときに借り賃の米とは別に、山の暮らしで手に入りにくい塩漬けした魚などを牛の角にかけて返し、それを「ツノミヤゲ」と言った。電車内で読んだ宮本常一にそんなことが書かれていて、ほのぼのとしたよい話なので酒のつまみに話そうと思っていて話し忘れた。

ツ ノ ミ ヤ ゲ 話 し 忘 れ る 秋 の 夜

(2018/09/08)


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◉指の先

2018年8月16日
僕の寄り道――◉指の先

宮本常一の生まれ故郷周防大島で行方不明になっていた幼児が元気に保護されたのも驚いたけれど、発見者が大分から駆けつけた 78 歳のボランティアだったことにも驚いた。

 

渋沢栄一記念館前にて(2018/08/15)

取り囲んだ記者たちに発見当時の様子を語る老人が上げた右手の先に、飛んで来たとんぼがヒョイとまったときには、妻とふたりテレビに向かって拍手した。

「 ぼ く、こ こ 」 と 蜻 蛉( と ん ぼ )も と ま る 指 の 先

(2018/08/15)

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突兀魁偉とあみだくじ

2018年8月5日
僕の寄り道――◉突兀魁偉とあみだくじ

突兀魁偉と書いて「とっこつかいい」と読むらしい。苦労して検索してようやくわかった。苦労は突兀の兀が読めないことから生じた。こういうときにスマホの手書き入力は役に立つ。兀は「こつ」と読む。

市井の史学家菊池山哉(さんさい)(1890 - 1966)の評伝(前田速夫『余田歩き菊池山哉の人と学問』晶文社)を読んでいたらその学問の全容を突兀魁偉であると書いてあり、突き出て高くそびえて厳(いか)ついことをという。まもなく読み終えるところまで来て確かにそう思う。著者はその突兀を山哉山塊(さんさいさんかい)と険しい山々にたとえて呼ぶ。 地名学者鏡味完二は『強すぎる野武士』と評したそうで、それもまたなるほどなあと思う。

読書はあみだくじを辿るように読むのが好きだ。感心しながら読んでいる本の中に別の著者が書いた本の引用や言及があると、すぐその本に寄り道して読んでみる。そうすると「なるほど、あの人はこの本をこう読んで、ああいうことを書いたのか」とよくわかり、結果として読書指導を受けたことになるからだ。

菊池山哉をなぜ読もうと思ったのかよくわからない。読みかけていた宮本常一『塩の道』をめくって見たけれどあみだくじの分岐が見当たらない。おそらく事項検索からの再検索を繰り返すうちにその存在を知り、あまりに大きな人なので評伝を手掛かりとして選んだのだろう。

370ページ弱の本を読んでいる途中で昼の散歩に出て、近所にあったという豊島郡衙(ぐんが)あとを散歩(武蔵國豊島郡衙跡を歩く)したら、なんと菊池山哉が豊島駅について書かれていたことを知った。早速あみだくじをひいて『五百年前の東京』菊池山哉著・塩見鮮一郎解説・批評社を取り寄せたら別な場所を豊島駅のあった場所と比定していた。これは困ったと評伝に戻って読み進めたら、地下鉄南北線西ヶ原駅開設に伴う発掘でその説は崩れたと著者の前田氏も書いておられた。

『五百年前の東京』を取り寄せてみて解説の塩見鮮一郎の名に見覚えがあるので本棚を探したら、何かのあみだくじで取り寄せたままになっていた『異形(いぎょう)にされた人たち』河出文庫が出てきた。あみだくじの再あみだくじ当選なので早速読んでみる。

『余田歩き菊池山哉の人と学問』を読んでいて驚いたのは、山哉が『府中市史』上巻の監修を任されていたことで、7年間かかった編纂作業途中の5年目で亡くなられている。そして続く下巻の監修を任されたのが宮本常一だった。やはりここでもあみだくじがつながっている。そういうものだ。

被 曝 の 日 け さ か ら ツ ク ツ ク ホ ウ シ 啼 く

(2018/08/06)


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◉塩の道

2018年7月17日
僕の寄り道――◉塩の道

宮本常一を読んでいたら「脯」という見知らぬ文字が出てきて「ほしし」と読み、乾し肉「ほしじし」の音変化であり「ほじし」とも読む。

同じく「腊」が出てきて「きたい」と読み、魚や鳥などをまる干しにしたものをいう。鳥のまる干しというものは見たことも食べたこともない。モズがモズをハヤニエにしたようなものだろうか。

郷里静岡でも昔から干物づくりが盛んで、魚はもちろんのこと、小さな鯨など海獣の乾し肉も伝統食としてつくられている。

宮城県北東部の牡鹿半島も巾着状の湾が多いせいか昔から鯨漁が盛んであり、保存用に加工した鯨肉を持って行商が各地へ歩いたという。


太平洋を南下し、阿武隈川を遡って福島へ入り、そこから米沢を経て山形へ行商する者と、郡山を経て会津盆地へ行商する者とに分かれ、後者は山を越えて群馬や栃木まで売り歩いたという。

遠回りに思えるのは買ってくれる人々が暮らすルートを選んで売りながら歩いたからだ。そういう行商人が運んだものは、蛋白源としての食物が保存のために含まざるを得なかった貴重な塩分であり、歩いたルートはそういう意味で「塩の道」だった。

毎年、関西出身の女性編集者から泉州水茄子の糠漬けをいただく。これもまた人と人の間の塩の道である。茄子を食べ終えたあとに残る見事な糠床を捨てるのがもったいないので再利用し、妻が生まれて初めての糠漬けに挑戦している。床をだいじに育てながら見事な味の糠漬けが食卓にのぼるようになってもう丸一年が経つ。

亭主の恩返しということで、今年から来年にかけての目標として、義父母が暮らしていた陽当たりの良いベランダで、手作りの干物づくりを始めてみようかと思っている。そう言ったらよい男の趣味だと妻が喜んでいるので、糠喜びにさせないようにしよう。

ふ り 塩 で 背 を 灼 か れ ゆ く 魚 の 道

(2018/07/17)


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◉牛の話

2018年7月5日
僕の寄り道――◉牛の話

大宮駅前で待ち合わせし、仕事の打ち合わせも済んだので、ドキュメント72時間で紹介され人気爆発の『伯爵邸』に場所を移して飲んだ。旧中山道交差点角の中央デパートが解体されて再開発が進んでいる。打ち合わせ相手の女性映像作家は大宮育ちなので、思い出深い地方百貨店だったと言う。

旧中山道中央デパート跡再開発

『伯爵邸』で『フィッシュ&チップス」「チーズサラミ」「沖縄おにぎり」を注文し、ワールドカップサッカーベルギー代表の勝利を祈念してベルギー産ホワイトビルで乾杯

友人と別れ、酔って駒込まで帰ったら空にはまだ昼間の明るさが残っていたけれど、朝から動いて長い一日だったという妻は疲れたと言って寝てしまう。四半世紀ぶりにインターネットの SNS サービスをやめたら気が散らなくなったおかげで、集中して本を読む力が戻ってきた。ひとり発泡酒を飲みながら民俗学者宮本常一の続きを読む。

まさに目から鱗の話ばかりで読書が楽しい。かつて中部山地で塩を運んでいた小ぶりで屈強な牛たちは佐渡で産出されたそうで、その佐渡の牛の話が長塚節(ながつか・たかし)の写生文にあるというので驚いた。長塚は子規の門人であり、関川夏央の評伝『子規、最後の八年』で知って『土』は読んでみたいと思っていたけれど、『佐渡が島』のことは知らなかった。

ひょっとするとと思って手元のスマホで検索すると青空文庫で読めるので、早速ダウンロードして一気に読んでみたけれどたいへん面白い。旅の写生文学というのは自然に民俗の記録になるのだなと再認識した。(2018/07/04)


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◉塩

2018年7月4日
僕の寄り道――◉塩

宮本常一『塩の道』講談社学術文庫を読んでいたら、日本人の塩に対するある種の無関心さについて書かれていて「ああそうか」と思う。塩は大切な食べ物ではあってもエネルギーにはならない。米や麦や粟などエネルギーになる穀物には穀霊が宿るとされ神様として祀られるけれど、塩自体を神として祀った例は見当たらないという。

塩の成分はナトリウムなどのミネラルで、有機物に含まれる炭素・水素・窒素・酸素という四元素以外の必須元素のことをいう。ミネラルは蛋白質、脂質、炭水化物、ビタミンと並んで五大栄養素のひとつに数えられている。

それでもナトリウムというミネラルでできている塩は神様になれない。それでは人間の健康に必須とされる 13 元素のうちナトリウム以外、亜鉛・カリウム・カルシウム・クロム・セレン・鉄・銅・マグネシウム・マンガン・モリブデン・ヨウ素・リンで神様として祀られているものはあるんだろうか…とか、どうでもいいことを考えている。(2018/07/04)


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◉甘蔗と甘藷

2018年6月25日
僕の寄り道――◉甘蔗と甘藷

宮本常一を読んでいたら、鹿児島県にある宝島の農産物として甘蔗が挙げられていた。とっさにカンショと読んでみたものの、原文に
「島にはまた畑地がかなり広く分布していた。そこにはサツマイモを植え、また甘蔗をつくって砂糖をしぼった」
とあるのでこのカンショはサツマイモではないらしい。

サツマイモは甘藷、サトウキビは甘蔗と書き、どちらもカンショと読む。甘蔗の蔗は漢音呉音ともシャでショは慣用読みとされている。ということは甘蔗はカンシャだったのかもしれないと、甘蔗を辞書でひいたらちゃんとカンシャの読みがあった。

甘藷や甘薯をひくとサツマイモの漢名だとあり、藷と薯は漢音でショ、呉音でジョとある。甘藷や甘薯はカンショ、甘蔗はカンシャと読めばややこしくない。宮本常一に戻れば、自分がカンシャと読めなかっただけの、「なーんだ」という話である。

ただウィキペディアでサトウキビをひくと甘蔗について
“「かんしょ」の発音は「甘藷」(サツマイモ)と同音であり、サトウキビの産地とサツマイモの産地が重複していることもあり、紛らわしいので好まれない。”
とあり、カンショと読んでモヤモヤしてしまうのも一般的な感じ方ではあるらしい。

そんなことを調べながら寝てしまい、起きたらロシアワールドカップ予選リーグの試合も終わり、日本はセネガルと引き分けていた。(2018/06/25)


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◉麦を食べる人々

2018年6月9日
僕の寄り道――◉麦を食べる人々

「昭和二五年に対馬へ調査にいったことがあるが、農家へとまっていると、きまったように朝四時ごろから唐臼をふむ音が方々でおこる。どこの農家でも朝おきるとムギをしらげる。それはその日のうちにたべるムギなのである。村じゅうの者がムギをたべている。」(宮本常一『民俗のふるさと』河出文庫)

しらげるは精げるまたは白げると書き、玄米や玄麦(げんばく)をついて白く精白することをいう。精白した麦を精麦(せいばく)という。昭和二十五年の対馬は決して豊かではなかったように思うので、貴重な麦を精製して栄養価の高い皮を取り除いてしまうことを不思議に思う。

母子家庭であることで息子に引け目を感じさせまいという意地もあってか、「うちでは麦ご飯は炊かない、あんたには白いご飯を食べさせている」というのが母の自慢だった。両親揃って安定した家庭に泊まると、健康食だと言って少量の押し麦や黄色い「ビタ米」などを混ぜてご飯を炊いており、かえって豊かに感じてちょっと羨ましかったものだ。

小学生時代、春夏冬の休みに預けられた清水の従兄宅では押し麦を混ぜた麦ご飯を炊いていたが、「お前のご飯には麦がいっぱい入ってる」と囃した従兄が「飯がまずくなるようなことを言うな」と伯父に平手打ちされて泣いていたので、豊かな親戚と思っていたけれど事情は複雑だったかもしれない。

宮本常一が対馬で見た足踏み式の唐臼はこんな道具だったらしい。どうしてわざわざ唐臼でついたのだろうと調べてみた。「えまし麦」といって、食べにくい玄麦を先に煮ておいてから炊くという手間のかかる工夫を昔の人はしていたらしい。朝四時ごろから唐臼をふまなければならないほど貧しくて忙しい人々は、唐臼で挽き割って粒を小さくしたものを炊いたそうで、挽割麦(ひきわりむぎ)というらしい。わが家でも麦ご飯を炊いてみようかなとふと思う。(2018/06/09)


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◉話を、話す 2

2018年6月6日
僕の寄り道――◉話を、話す 2

妻に話してやろうと思いつつ適当なタイミングが見つからず、「いい話を読んだんだけどさ」と話せていないお話。

「民俗学者の宮本常一が八十歳を過ぎたお婆さんから聞きとった話なんだけどさ。そのお婆さんは嫁ぎ先の夫と気も肌も合わないので離縁してもらって実家へ帰っていたんだって。
 やってきた行商の小商いが、あんたは嫁の苦労というものを知っているだろうから再嫁してみないかと言う。『嫁の苦労というものを知ってるだろうから』というのが面白いよね。
 その相手というのは働き者の良い男だけれど、寝たきりで口うるさい爺さんの世話をしている。それじゃあ嫁は苦労するよね。でもその小商いが言うには、『あんたはその爺さんに嫁ぐんじゃない、年寄りはいずれ死ぬ』って言うんだって。面白いことを言う人だと興味を持ったので、赤い帯しめて、小さな行李に荷物を詰めてついて行ったんだって。
 先方に着いたら夫となる男は畑仕事に出て留守なので、台所に腰を下ろしてぼーっとしていたら、奥で寝たきりの爺さんが
『嫁に来たんなら嫁らしく働け、俺は小便がしたいんだ』
って怒鳴るんだって。早速たすき掛けして尿瓶持って下の世話をし、台所を片付けていたら男が帰って来て
『嫁に来たんなら飯を作ってくれ、俺は腹が減ってる』
って言う。夜になったのでどう布団を敷こうかと聞いたら
『気の向くようにすればいい、女房じゃないか』
と言うので、なんだか十年以上連れ添った人のような気がして、ああ、私は本当にこの家で必要とされてるんだなって思ったんだって。いい話だね。
 苦労も苦労と思わず働いて、口うるさい寝たきりの爺さんは、その後なんと十数年も生きた。そして死ぬ間際に
『お前には本当に世話になった』
と礼を言われたんだって。苦労はしたけれど、子どもにもたくさん恵まれて、本当にいい人生だった。昔の嫁入りなんてそんなものでしたよ。そうおばあさんは言ったんだってさ」

こうやって話の下書きを頭の中につくり、予行演習してから原著を読んでみると、細部のニュアンスがずいぶん違う。それでいい、語り聞かせはそれがいいのではないかと思うのだ。(2018/06/07)



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◉貸し借りあれこれ

2018年5月31日
僕の寄り道――◉貸し借りあれこれ


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この春、田端西台通りの道路拡幅工事現場が遺跡発掘中で、奈良から平安時代にかけての住居跡が見つかっていた。見つかった住居跡は縦穴式の民家で、火災によって地中に取り残されたいわば事故物件であり、事故当時の状況が保存されたタイムカプセルになっているという。

面白いのは、そこから鍬と鋤の刃先が見つかったことで、鉄器を首長が一括管理して統治していたという従来の説を覆す可能性があるという。当時は鉄が貴重だったので、農具は木製で刃先にだけ鉄が取り付けられていた。そういう簡素な農具でさえ首長から貸与され、農民が自前の農具を持てない時代だったとされている。

民俗学者宮本常一によると、新潟県蒲原平野地方には貸鍬(かしくわ)の制度があったという。貸主は鍛冶屋で、農民は鍬を借りて農作業を行い、秋の収穫を終えると鍛冶屋は鍬一丁に対して米一升から二升を取り立てたという。山形県庄内地方には貸鍬以外に貸鎌や貸鋤の制度もあった。

能登半島では揚げ浜による製塩用の貸釜制度もあり、一石焚きの釜の貸料は年米一石だったという。貸主の鋳物師は持っている釜の数だけ所得があるわけで資本家化し、実際に鋳物を鋳造する職人を大工といった。鋳物は冬に鋳られるので夏場は仕事がなく、鋳物の大工たちは東京に出稼ぎして左官をしたという。

郷土史の編集会議で帰省し、郷里の鳶職は東京でも有名だったと言ったら、郷里で有名なのは塗装職人としてだったはずだという。

どこでどう憶え違えたのかと気になっていたら、マンション管理組合の理事長を押し付けられてしまい、大規模修繕の業者を呼んで面接をした。驚いたことに彼らの多くはもともと海辺の塗装会社だった。船や港湾施設の塗装工事をするために高度な足場を組める技能者だったからだ。

能登の鋳物大工がどうして出稼ぎ先の東京では左官職人だったのだろうと思って、そんなことを思い出した。泥や砂やコテを使って鋳型を作るのがお手のものだったからだ。

はて、壊れやすい農機具で、自前の道具を持つことと有償貸与方式を比べて当時の農民はどっちが得だったか、米による支払いが経済の根幹だったから長いこと日本は年末一括払いの掛け売り方式だったのか、資本家というのはそういう貸し借りから生まれるのか、貸借経済が町という仕組みを発生させたのか……などなどあれこれ思うところが多い散歩である。(2018/05/31)

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