【おお、それ、みよ】

【おお、それ、みよ】

関西地方には「OH!ソレ!み〜よ!」というテレビ番組があるらしい。深い。

世界には「おお」と誰もが共有できる大事なことがあるのだけれど、「それ」と指し示そうとすると消えてしまい、「みよ」と言われても見ることができない。

流れのような感じのなかにあるように思われる「いま」は「それ」と指し示すことができない。時間とはあると思うとなくて、ないと思うとあるものの典型である。

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【共有物の悲劇】

【共有物の悲劇】

人間が使う食器は大別すると共用器、銘々器、属人器の三つに分けられる。
共用器は皆でつつくための大皿、銘々器はめいめい個人的にキープするためのとり皿、属人器は日本の家庭に特徴的なマイ茶碗、マイ箸、マイ湯飲みという個人専用食器のことをいう。共用器、銘々器、属人器という三つの分類はパソコンにもあてはまる。

友人の小さな編集事務所に Mac が入った 1992 年当時は、たった一台しかない  Mac を複数の編集者が順番待ちして使っていた。一台のコンピュータに個々でログインして厳密なマルチユーザー環境が構築できるような OS ではない時代だったので、そのコンピュータはみんなの共用器だった。

やがて一人ひとりが使える台数の Mac が置かれ、それらのネットワークの真ん中にサーバーという大皿が置かれる時代になった。一人ひとりで使えるといっても終業時には電源を落として退社してしまうので、会社にいるときだけ一時的な専有物になる銘々器である。

そして一人ひとりが持ち歩けるノートパソコンやもっと小さなポケットコンピュータや携帯電話などの電子機器が登場してマイ茶碗・マイ箸・マイ湯飲みと同じ属人器になった。


DATA:NIKON COOLPIX S4

コンピュータがまだ共用器だった時代に Mac の調子が悪いというので見せてもらうと、とっ散らかったハードディスクの中身が生ゴミの入った三角コーナーさながらで驚いた。

古い Mac ユーザーなら笑えると思うのだけど、電話で相談に乗り、「じゃあまずシステムフォルダを開いて」と言ったら「うちの Mac にシステムフォルダなんてありません」と言うので、「えっ、じゃあそのコンピュータはどこから起動しているの?」という話になり、仕方がないので実際に行って触らせてもらったら、消せないゴミフォルダだとおもった誰かが三角コーナーのような場所にぶち込んだらしい。システムフォルダはその中にあって、システムはゴミ溜めの中から起動していた。


DATA:NIKON COOLPIX S4

共用器は落書きだらけのゴミ捨て場になる。銘々器もさほど愛着を持って使われている風もなく他人にいじられておかしくなったまま騙しだまし使われていたりする。気味悪くても毎日退社するたびに縁が切れるので耐えられるのだろう。

「システムって何ですか?」という土足レベルで消費される共有物コモンズの悲劇である。社会もコンピュータもシステムのレベルでは変わらない。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2006 年 6 月 21 日、16 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【もうひとつの団子坂】

【もうひとつの団子坂】

かつて文京区千駄木にある団子坂に面したマンションで暮らしていたことがある。
 
タクシーに乗って
「だんござかまで」
と言うとたいてい通じるのだけれど、一度高齢の男性が運転するタクシーに乗ったら逆方向に走り出し、年寄りなので耳が遠いのかと思い
「あの~行きたいのはだんござかなので逆方向じゃないですか?」
と言ったら一拍間をおいて
「ああ、文京区のだんござかですか、はっはっは、あっしはこっち方向のだんござかかと思っちゃいましたよ」
などと笑うので、
「タクシーに乗ってだんござかまでって言ったら、中央高速に乗って山梨県の談合坂までつれていかれるところだったよ、とんでもない狸オヤジだった」
などと後日友人に笑って話したものだった。

東京都新宿区若松町。
変則 4 差路に立って諸国民芸『備後屋』はどっちだっけと方角を確認し、緩やかに下る坂を歩いていたら道路際に歴史解説板があり、なんと『備後屋』前の道も団子坂なのだった。
 
「団子坂 この坂はいつも泥んこで、歩くたびに泥だんごのようになったという。嘉永七年(一八五四)の『江戸切絵圖』には「馬ノ首ダンゴサカト云」とある。」
 
なんと千駄木の団子坂と名前も一緒だし、いくつかある由来も同じものでびっくりした。

最近は都内でタクシーに乗ると
「すみません、なりたてで道がわかんないんです」
などという運転手が多くて道案内料分を運賃から割り引いて貰いたいくらいなのだけれど、昔は嬉しそうに大好きな江戸の歴史を語り出す老運転手がいて楽しかったのを懐かしく思い出す。
 
「(そうか談合坂ではなくあの運転手はもうひとつの団子坂を知っていたのか)」
と今になっておのれの無知を恥じる仕事帰りである。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 6 月 20 日、14 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【尊徳とひまわり】

【尊徳とひまわり】

奈良本辰也と児玉幸多が二宮尊徳について肯定的な立場で著書を残している。『日本の名著26 二宮尊徳』責任編集児玉幸多を図書館に貸出予約した。尊徳の評価について
・帝国主義の少臣民的理想像として銅像が建ち修身の教科書となった人物
・支配階級の利益養護の側に立った保守反動(マルクス主義者から)
・農民の側に立ってひたすら生活の安定を願った実践の人(奈良本・児玉)
・「土の哲学」にかわって「貨幣の哲学」を農業に持ち込んだ人(守田志郎)
と大雑把な分類をしてみた。

準備ができたというので取りに行ったら図書館の玄関前に金次郎のようにひまわりが立っていた。

ひまわりを国花にしている国で戦争が起きている。毎日沈鬱なニュースを見ていたら対立する評価のある尊徳の報徳思想について読んでみたくなった。静岡でもとくに報徳思想が根付いていた地域のひとつである清水が郷里であるということもある。

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【花の名をさがして】

【花の名をさがして】

ムラサキカタバミ(紫片喰)の写真を撮っていたら周りに極小の黄色い花が群生しており、その花の名がわからない。

園芸などまったくしたことのないので、ましてや道端で見かけた花の名を知っているはずもない。ムラサキカタバミにしたって、帰宅してピンクの花を見ながら「カタバミの花」と言ったら妻が「あら、カタバミの花って黄色じゃないの?」というのでムッとして「カタバミ」をインターネット検索して発見し「ああこれはムラサキカタバミだった」と慌てて訂正することで、半分くらいだけ面目を保つことでせいいっぱいだ。

名前のわからない黄色い花の中に白い花があり、ムラサキツユクサの色変わりに見えたのでツユクサと白い色をキーワードにネット検索したらツユクサ科のノハカタカラクサ(野博多唐草)だとわかった。やれやれ。

さて、ムラサキカタバミ(紫片喰)とノハカタカラクサ(野博多唐草)の名前当ては片付いたので最後は黄色い花の名前なのだけれど、小さくて萼が 5 枚、花弁が 5 枚、6 月に咲く…などという検索では、広大な野原で花の海の中を泳ぐようなものなので、じっと撮ってきた写真を観察する。

よく見ると葉っぱがぽってり水分を含んでいるように分厚いので「多肉」をキーワードに加えて検索したら、コモチマンネングサ(子持万年草)だとわかった。

「はいお疲れ様、今回はムラサキカタバミ(紫片喰)とノハカタカラクサ(野博多唐草)とコモチマンネングサ(子持万年草)を覚えましたね。忘れないうちに自分の日記に書いておきましょう」(ひとりごと)

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 6 月 19 日、14 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【土から貨幣へ】

【土から貨幣へ】

亡父利右衛門が質入れした下々田(げげでん)九畝十歩=約九アールを、奉公にでて貯めた三両の金で受け出したのが1806年(文化三)というから二宮尊徳二十歳のときだった。下々田というのは太閤検地で定められた石盛(こくもり)の石高による上・中・下・下々でいちばん下にあたる収穫率の低い貧しい田んぼだ。

先日、清水の古い寺で見せてもらった過去帳のようなものに、檀家の人名とともに所有する田畑の面積と上・中・下・下々の区分が書かれていて、寺請制のもとでは農民が所有する田んぼの台帳にもなっていたのだなと驚いた。農民にさせられるということは、はじめから貨幣的な計算の絡繰(からくり)に縛りつけられていたわけで、百姓には柴を背負って働きながらでも経済という学問を身につけなくては貧困から抜け出す道はないぞと尊徳は教えていたのだろう。

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【地上の道、地中の道】

【地上の道、地中の道】

道端に小さな穴が空いて砂が盛り上がり、冬眠から覚めたアリたちがせわしなく出入りする姿を見ると今年も間もなくやってくる灼熱の夏が近いことを実感する。

東京都千代田区神田錦町から北区滝野川までの道を本郷通りといい、六義園脇を通るこの道は日光御成道ともいい、将軍が日光東照宮に詣でるために用いた道なのでその名があって岩槻街道ともいう。

東京都中央区日本橋を起点として栃木県日光市の日光東照宮に至る道を日光街道といい、同じく東京都中央区日本橋を起点として草津宿で東海道に合流し京都の三条大橋に向かう道を中仙道という。

東京都中央区日本橋を起点とした中仙道が文京区弥生一丁目の本郷追分で分岐した道が六義園脇を通る日光御成道であり、この道はやがて幸手宿で日光街道と合流する。

要するに将軍が日光詣でをする道は日本橋から幸手宿まで2つのルートが存在したことになる。

日光御成道と六義園近くの上富士交差点で交わる道が不忍通りで、正式には東京都市計画道路幹線街路環状第 4 号線といい、目白台 2 丁目から上野公園前交差点付近までの区間を通称不忍通りという。手元にある明治 40 年東京市本郷区全図では六義園脇を通るのは日光御成道だけで不忍通りはまだ影も形もない。

日光御成道脇の歩道からはい出てきたアリたちが盛り上げた砂が真っ白なのにびっくりし、そういえば電線地下埋設工事が完了して舗道を新しくした際、地固めをして敷石を置く前に白い砂を敷き詰めていたような気がする。水の浸透を調整する工夫だろうと眺めていたのを思い出した。

人間がトラックで一気に運んで敷き詰めた白い砂を、冬眠から覚めたアリたちが一粒ずつ巣の出口に運んでは積み上げている。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 6 月 18 日、14 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【トクホンと二人の徳本】

【トクホンと二人の徳本】

幼い頃、祖父母の脇にのべられた布団の中で寝付かれずにうとうとしていると、ぷーんと爽やかな臭いがして
「(ああ、おじいちゃんがトクホンを貼ってもらったな)」
とすぐにわかったものだった。そのせいか今でも外出時にトクホンの臭いを嗅いだりすると幼児期にタイムスリップしたように眠たくなる。

豊島区西巣鴨、地蔵通り商店街である旧中山道を北西にどんどん進み都電荒川線庚申塚駅脇の踏切を渡ったところに餃子の人気店『ファイト餃子』があり(2008年当時)、郷里静岡県清水帰省の際の土産にして友人たちとよく食べたものだったが、久しぶりに買いに行ったら定休日なのか閉まっていた。

『ファイト餃子』店頭から旧中山道を挟んだ場所に路地があり、その奥に「延命地蔵尊」という赤い幟(のぼり)が見え、清水駅前銀座の延命地蔵尊を思い出して懐かしい。

どんな延命地蔵尊があるのだろうと見に行ったら、大変大きくて古びた石柱があり、四方に「徳本」と刻まれているのだった。

祖父が愛用していた貼り薬『トクホン』の名の由来となった医師永田徳本(とくほん:室町から江戸にかけて実在した)ゆかりの石碑かと一瞬思ったけれど、これは1758(宝暦8)年、紀州日高郡志賀村久志(和歌山県日高郡日高町)に生まれ、苦行しつつ全国を行脚し、最晩年小石川伝通院、一行院で過ごしてその地で没した徳本(とくほん)上人の蔦文字と呼ばれる「南無阿弥陀仏」六字名号を刻んだものだった。4 面すべてに「南無阿弥陀仏」の六字が刻まれておりその下に徳本と上人の名が刻まれている。

……羽黒山の修験者は民間宗教なものですから、正規の僧侶ではありません。その正規の僧侶でない人を、敬称を付けて、どう呼ぶのかというと「上人」と呼ぶのです。
 いまは日本語が紊乱しておりまして、上人というと、偉い人のようにきこえますが、上人というのは資格を持たない僧への敬称であって、たとえば空海上人とは言いませんし、最澄上人とも言いません。(司馬遼太郎「浄土」より)

全国を行脚して1000基以上の「南無阿弥陀仏」六字名号を残した徳本上人もまた正式の僧ではなく苦行により自らの力で念仏の教義を悟った人だったといい、目に一丁字もない人だったらしいが、十一代将軍家斉や奥の者の帰依をうけ江戸庶民にも熱狂的に受け入れられた「上人」に相応しい人だったらしい。

そばに掲示されている資料に
「「ずっと以前、トクホン本舗の人が拓本を取りに来たのよ。何か関係あるかも…」と教えてくれたのは地元の人。早速、トクホン本舗に伺うと、永田徳本と徳本上人のコピーを送ってくれた」
と微笑ましいエピソードが書かれており、この場所でトクホンと二人の徳本がちゃんと結びついている。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 6 月 17 日、14 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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カレー南蛮百連発052:そば処「新ばし」のカレー南蛮

カレー南蛮百連発052:そば処「新ばし」のカレー南蛮
 

静岡市葵区安東3丁目。
しずてつジャストラインバスの停留所名が「記念碑前」になっているけれど、なんの記念碑があるのかわからないので、いまどの辺にいるか現在地がわからない。地元の利用者は、ただ「記念碑前」でこと足りるのだろう。

バス停前のそば処「新ばし」に入ってカレー南蛮を頼んだら清水・静岡にふさわしい素晴らしいカレー南蛮が出てきた。

かしわ肉が硬くボソボソにならないよう、過熱前にちゃんと粉をはたいてあり、頼まなくてもちゃんと蕎麦湯がついてきた。お店を出るとき「ごちそうさま、おいしかった!」と思わず声が出た。(2022/06/15)

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【雷門と雷おこし】

【雷門と雷おこし】

東京で過ごした小学生時代、郷里静岡県清水に帰省する際の手みやげは、決まって浅草雷門脇にある常磐堂の『雷おこし』だった。
 
軽いのに嵩(かさ)があって見栄えが良く、嵩があって見栄えが良いのに手頃な値段であり、たとえ長いこと仏様の前に供えておかれても日持ちのするもの、と考えると必ず常磐堂の『雷おこし』を思いついたのだと思う。

浅草名物『雷おこし』なら上野駅や東京駅でも買えるのだけれど、春・夏・冬の休みに息子を連れて帰省する母は、数日前になるとわざわざ都電を乗り継いで浅草に出て、雷門脇常磐堂本店で『雷おこし』を買うのだった。

ちゃんと本店で買うことにこだわり、清水で暮らすようになって上京する際も、お土産の清水名物『追分羊羹』は旧東海道追分の本店に行って買わないと気が済まない人だった。土産物には贈る者が込める精神的な重さがあり、雷おこしは軽くて重かった。

東京都台東区浅草、雷門前に立って大提灯を見上げると、なんだか郷里清水に帰る日が近いようで今でもそわそわした気持ちになる。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 6 月 16 日、14 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【夜空の下で】

【夜空の下で】

新潟の友人が社員旅行で上京し、昼食後は自由行動とのことだったので上野駅で待ち合わせして浅草に出掛けてみた。

空の下にはみ出して、静かに降りてくる夜の闇に溶け込んでいくように酔える場所で飲みたかったからで、週末になると信濃川沿いにあるベンチに腰掛けテーブルにお弁当とワインを広げ、ご夫婦で屋外の食事を楽しんでいる新潟の友人にも相応しい気がしたからだ。

こうやって空の下にはみ出すようにして飲める場所が、自分が幼い頃はどこの町にもあって、郷里静岡県清水の飲食店街でも似たような風景を見た記憶があるけれど、「保健所の締め付けが厳しくて…」と愚痴をこぼしながら次々に消えていったのだ。

新潟市内にもかつては運河沿いにたくさんの屋台が店を出して、こういう心安らぐ飲食風景が見られたというが今は面影もないらしい。

親たちの介護が始まる前は、仕事のストレスがたまるたびにやってきた町。浅草に来るたびに、こういう場所が残っていて良かったと心から思う。

通称浅草ホッピー通りの空を月がゆっくり移動して行く。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 6 月 15 日、14 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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カレー南蛮百連発051:清見そば本店のカレー丼

カレー南蛮百連発051:清見そば本店のカレー丼
 

妻はカレー南蛮ならぜったいうどんを頼むという。自分の場合はぜったい蕎麦で、うどんにするならご飯のほうがよくて、「カレー南蛮のごはん」と言ってもいいのだけれど「カレー丼お願いします」と言っている。

難波(なんば)ネギを使うところからカレー難波がカレー南蛮になったという説がある。確かにカレー南蛮には難波ネギが合う。清水でも静岡でもカレー南蛮が美味しい蕎麦屋は難波ねぎのような青い中太ネギで出てくる。かおり立つネギが香辛料と鰹出だしを結びつける。

のぼり新幹線ひかり号到着まで時間があるので、静岡駅南口の清見そば本店で「カレー南蛮のごはん」を頼んだら理想的なネギがのって出てきた。素晴らしい。

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【石に呼ばれる】

【石に呼ばれる】

静岡県清水区柏尾。文化財指定されている寺院内部、遺跡から出土した不思議な石器、鎌倉時代あたりの掛仏(かけぼとけ)などを見せていただいた。

写真でしか見たことのない文化財を手に取って触って気分が高まったのか、寺院脇の斜面で面白い石から声かけされ「呼ばれた」気がしたので拾ってポケットに入れてきた。

この小さな盆地状の集落である柏尾からは古墳も出たし、城があったようで武器製鉄も行われた痕跡があるし、たくさん作られた掛仏をつくる鋳物師の作業所もあったという。拾った石は鉄分を含むのか、洗っても拭いた布がしばらく茶色かった。

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【雲の重さ】

【雲の重さ】

とうとう関東地方も梅雨入りした。

空を灰色の雨雲が埋め尽くしているけれど、飛行機の窓から見下ろす雲がみな真っ白であることからわかるように、雨雲自体が灰色をしているわけではなくて、水や氷の粒を含んだ雨雲が分厚いので、地上から見上げると太陽の光を通しにくいために灰色に見えるだけだ。


DATA:FUJIFILM FinePix Z1

重くたれ込めた雨雲……などと文学的に言うけれど、理科的に考えると重くたれ込めた雨雲にも当然重さがある。かなりの重さがあるものがどうして頭上に浮いているのだろうと考えると不思議だし、不思議だな…と思った瞬間に魔法が解けて雨が降り出すような気もする。

空を埋め尽くす雨雲にはいったいどれくらいの重さがあるのだろう。


DATA:FUJIFILM FinePix Z1

たとえば雨雲の大きさが  10km × 10km × 10km の立方体に匹敵する体積(本当はもっと大きそうだけれど)だったとし、雨雲は重いもので 5 グラムの水分を 1 立方メートルあたり含むそうなので、遠慮して中間をとって 2.5 グラムの水分を含むとすると、この雨雲の固まりは 250 万トンの水分を含む(雲の含水率=液体雲水量)ことになる。

なんと 250 万トンの水が頭上に重くたれ込めているわけで、250 万トンであろうが 500 万トンであろうが浮いているものは浮いているんだからそれでいいじゃないかと思わないと、魔法が解けてドスンと落ちてきそうでなんだか怖い。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2007 年 6 月 14 日、15 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【時の矢印】

【時の矢印】

今日は午前 10 時までに静岡市清水区柏尾の光福寺まで行く用事があるので早朝の山手線外回り電車に乗って出かける。垂迹美術を研究されている大塚幹也先生にご一緒して掛仏を見せていただくことになっている。

清水の庵原・蜂ヶ谷・梅ヶ谷・柏尾・大内・鳥坂あたりの清水平野山沿いの地域は報徳思想が深く地域に根付いていた。

時間についての表現において自分の場合、
「今日は昨日になり、明日は今日となる」
という表現がしっくりくるように時の流れを感じて生きている。
→→→→ という後ろ向きの流れで時間を感じてしまう。

報徳思想について書かれた中公クラシックス『二宮翁夜話』児玉幸多訳を読んでいたら
「昨日は今日になり、今日は明日となる」
という表現が新鮮でちょっと感心した。何だか背中を押されているようで、こういう気持ちの持ち方はいいなと思う。
報徳的な ←←←← の流れを思い浮かべながら駅に向かう。

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