【たばことウルフ】

 【たばことウルフ】

今朝の朝日新聞 23 面東京版『角界余話』第四話の「隅田川 横綱は何捨てた」は面白かった。

柏鵬の 1965 年は写真入りなので「ああそんなことがあったな」と歴史の中に思い出せたけれど、若き千代の富士が一日 80 本のヘビースモーカーだったということはまったく知らなかった。喫煙するウルフがはじめて頭の中に映像化した。

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【卓袱台と豊かさ】

【卓袱台と豊かさ】

仕事の打ち合わせをしていたら、編集者がヘンな質問をする。
「怒って卓袱台(ちゃぶだい)をひっくり返す父親がいた家庭が貧しかった日本の象徴だったとすると、金持ちの象徴って何だったんでしょうね」

年下の編集者なら、
「ヘンな質問。もっとよく考えて質問をしてください」
と笑って取り合わないし、年上の編集者なら、
「若いので卓袱台をひっくり返す父親がいた時代なんて知りませんよ」
と笑って取り合いたくないのだけれど、質問者が同い年なので何となく真剣に考えてしまう。

子どもの頃、卓袱台をひっくり返して怒る他人の父親というのは見たことがあるけれど、いつも母と喧嘩ばかりしていたわが父が卓袱台をひっくり返すところは見たことがない。思えば卓袱台をひっくり返して怒るお父さんというのはみんな立派なお父さんだったのだろう。他人の全人格を否定するまで傷つけることがたやすくないように、家族の全生活を否定するような行動すなわち貧しい家庭の卓袱台をひっくり返して怒るなどという行為は、並の男にできることではない。相当な覚悟のある、腰の据わったお父さんにしかできないことだったのではないかと思う。

離婚して女性が経済的に自立したり、ドメスティックバイオレンスだと亭主を告訴したりが難しかった時代だった。妻は泣きながら割れた茶碗を片付け、飛び散ったご飯やおかずを拾い集めて始末し、泣きじゃくる子どもたちに
「おそうめんでも茹でるから待っていてね」
などと言って台所に立ち、それでも夫婦は家庭を放棄するわけでもなく、卓袱台一つひっくり返っただけで、家族とその暮らしが脆弱であるがゆえにかけがえのないものなのだと確認できてしまったりしたのだろう。本当に卓袱台をひっくり返して怒るお父さんのいた昭和という時代が、本当に貧しかったのだろうかと改めて考え込んでしまう。


この角度で展示された食べ物を食べ物として感じることができなくて、どうしても食欲が湧かないし、
長いこと見ていると気分が悪くなる。若い人たちは平気なのだろうか

Data:RICOH Caplio G4 wide

「ひっくり返す卓袱台が貧しさの象徴だったとしたら、金持ちにはそもそも、ひっくり返す象徴なんてなかったんじゃないの?」
と答えてみる。
「でも金持ちだって暮らしをひっくり返したくなるときってあったんじゃないかなぁ」
「卓袱台とそのひっくり返し役を失うことと引き替えに金銭的豊かさを手に入れたのが金持ちだったんじゃないの?」
「じゃあ豊かになったと思いがちな現代社会の卓袱台は?」
「目には見えないけれど社会全体で既にひっくり返っていてその代償として手に入れたのがこのよどんだような豊かさなんじゃないの?」

同い年の男同士というのは、相当に観念的な話でも分かり合えるような気がしてしまうところが気楽な良さであり、弱点であるのかもしれない。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 15 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【しとぎを調べて】

 【しとぎを調べて】

スマートフォンで調べ物をしようと電子辞書を起動したら前回の検索結果表示が残っており、「しとぎ」と入力されて【×粢/×糈】という漢字表記と、

水に浸した生米をつき砕いて、種々の形に固めた食物。神饌に用いるが、古代の米食法の一種といわれ、後世は、もち米を蒸して少しつき、卵形に丸めたものもいう。しとぎもち。

という解説が表示されていた。それを読んで「あ、そうか」と思い出したのだけれど、郷里静岡県清水の和菓子店にならぶ「ちいちいもち」もこういう神饌(しんせん)の一種なのだろうなと思って「しとぎ」を検索したのだ。

たしか前回の帰省時にしずてつバス車窓から見えた旧静岡市内の餅屋には、そのどちらとも違う餅の名が書かれていて、あれもきっと「ちいちい餅」と同じようなものだろうなと思ったのだ。

人間は一度検索したくらいでは記憶が最上面に残らない。なんども同じことを調べている。当たり前のように概念となるには、取っ替え引っ替えできる額縁のように取り揃えてフレーム化され、ひとくくりととらえる能力としてゲシュタルト化されなくてはいけない。

調べてわかったことが自分の一部となるためは、くりかえし反復される運動が必要で、覚えるのが脳ではないから「身につく」というのだろう。

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【お七と尊徳のどうでもよくないこと】

【お七と尊徳のどうでもよくないこと】

お茶の水発駒込行きの都営バスに乗り、駒込吉祥寺前を通過する際、乗り合わせた中年女性 3 人組のひとりが車窓を見ながら、
「あら中央線だけじゃなくて、こんなとこにも吉祥寺があるのね」
「あの吉祥寺とは関係ないのよ」
関係は大ありなのだけれど、そんなことどうでもいいやとぼんやり聞き流すと、
「古そうなお寺だけど何かあるの?」
「ああ、八百屋お七のお墓があるのよ」
などと言うのでちょっとびっくりした。

八百屋お七の墓は文京区白山一丁目浄心寺坂を下った先の圓乗寺にあるのだけれど、どうして吉祥寺に墓があるなどという話になるかというと、吉祥寺境内には『お七吉三比翼塚』という石碑が立っているのである。

比翼塚というのは辞書によると、互いに愛し合って死んだ男女を同じ場所に葬った墓のことで、吉祥寺にお七の墓があるというのは言葉の上では間違いではない。大罪を犯したとはいえ、愛し合ったふたりを現代の日本に添い遂げさせてやろうじゃないかというわけで、ほんとうにふたりの遺骨を掘り出して一緒に埋めてやったわけではないだろう。墓石の下に骨を埋めるようになったのはつい最近になってからのことなのである。とはいえ、現代人には比翼塚が一般的な墓のイメージと重なりにくくて、どうでもいいやと思いつつ妙にひっかかる。


お七吉三比翼塚
Data:MINOLTA DiMAGE 7

そういえば吉祥寺には二宮尊徳の墓があると思い込み、そう日記に書いたこともあるのだけれど、ちょっと気になるので墓の前まで行ってみると、川上眉山に関しては墓と書いている文京区教育委員会が、二宮尊徳に関しては二宮尊徳の「墓碑」とわざわざ括弧付きで表記しているのに初めて気付いた。

調べてみると二宮尊徳は晩年になって日光神領の復興を幕府より命じられ、その事業の最中、栃木県今市市において 70 歳で亡くなり、同市内にある報徳二宮神社に葬られているので墓もそこにある。


草葉の陰の尊徳先生  
Data:MINOLTA DiMAGE 7

そうか吉祥寺のは墓ではなくて「墓碑」か、と納得しかけるのだけれど、辞書によると墓碑というのは死者の氏名・戒名・没年月日などを刻んだ墓石なので、墓碑があるということは「墓」なわけで、吉祥寺に尊徳の「墓」があるというのも言葉上は間違いではない。


二宮尊徳が「立てることなかれ」と言った『墓碑』(駒込吉祥寺)
Data:MINOLTA DiMAGE 7

まあどうでもいいや、とも思うのだけれど、
「余を葬るに分を越ゆることなかれ、墓石を立てることなかれ」
と遺言したという尊徳先生も「どうでもよくない派」に加わっていただけそうな気がするので、やっぱり「どうでもよくない」ときちんと書いておきたい。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 14 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【 16 年目のめまい】

 【 16 年目のめまい】

机に向かって仕事中とテーブルに向かって食事中に、座っているのに立ちくらみのような眩暈がしてびっくりした。忙しい仕事が佳境に入っているのでこんな時に倒れたらやだなと思い、仕事場に来て急ぎのデータをすべて出版社と印刷所に送信した。

そしてふと本棚を見たら、毎朝飲み続けている血圧の薬を連休明けから三日間も飲み忘れていた。連休明けから大忙しで薬のことなど忘れていたのだ。

外出中に立ちくらみがし、慌てて近所の診療所に行ったことがある。あのとき以来のめまいであることを思い出した。その結果、血圧の薬を飲み始めたのだけれど、あれはいつだったのだろうと自分の日記を検索したら 2006 年 12 月 9 日だった。

血圧が 220 もあってびっくりして医者に行き血液検査をして貰ったが、コレステロール値は許容範囲に近いし、尿酸値も低いし、肝臓に関する数値も悪くはないけれど γ-GTP の値が高いので飲酒量を減らして半分くらいまで下げようという話しになった。

最も副作用の少ない一般的で弱めの血圧降下剤、その小さな一粒の錠剤を毎朝飲み始めた。
血圧を測ったら 160 まで下がっていたが、友人は短期間に急激に下がりすぎているような気がするからこういうときこそ注意しなくてはいけないと言う。ということで今週も清水片付け帰省を休んで在京だが、外は冷たい雨が降り始めた。

無人となった郷里清水の実家片付け中で、ここで倒れるわけにいかないと思ったのだろう。あれから数えて 16 年ぶりのめまいである。

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【啄木の五月】

【啄木の五月】

風薫る五月となり樹々の緑は萌え、初夏を思わせる散歩日和になったので、日々の憂さ晴らしに六義園前から足を伸ばし、小石川植物園脇を抜け、環三通り桜並木を横目で見て、啄木が最晩年を過ごした旧久堅(ひさかた)町小石川の家跡を訪ねてみた。


小石川植物園側から見た環三通り桜並木。啄木はこの右手に住んでいた

青空から降り注ぐ日ざしが眩しく痛いほどで、桜並木が作る木陰が心地よい。このあたりに地元有志により桜の苗木が植えられたのは昭和 28 年と資料にあるので、啄木がこの辺りに居住した当時は無かったはずなのだけれど、小石川植物園も至近であり緑濃い地域なので、啄木の玄関二畳、居室四畳半と八畳そして台所というつましい住まいでも、庭に桜が植えられていたらしい。

君が娘(こ)は庭のかたへの八重桜
散りしを拾いうつつともなし

と、友人の死を看取った若山牧水は詠んでいる。


文京区小石川5-11-7 石川啄木終焉の地

たしかこの辺りだったと環三通り裏手の露地を歩いてみたけれど史跡案内板が見当たらず、そうか、ごく普通の住宅地だし、人が死んだ場所や埋まっている場所を人は嫌うので、「ここで死にました」などと書かれた表示板はないのかしら、などと寂しい気持ちで歩いていたら、ちゃんと「都旧跡石川啄木終焉の地」と書かれた立派な石碑が建っていた。

縁先にまくら出させて、ひさしぶりに、
ゆふべの空に親しめるかな

啄木直筆のノート、その最後から二首目にはそう詠まれているという。

そうだよなあ、この萌えるような若葉の下、初夏の生気溢れる大気を感じながら、縁先で小石川のこの季節を啄木も楽しんだ日だってあったんだよなあ、と思ったりするけれど、1911(明治 44 )年 8 月 7 日にここへ越してきて 1912(明治 45 )年 4 月 13 日の朝、26歳の若さで亡くなっているので、啄木はこの場所で五月の空を見ていない。


教育の森『フィオーナとアリアン』朝倉響子。この場所にかつて「S館」という木造オンボロ校舎があった。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 13 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【猫又橋】

【猫又橋】

六義園正門を出て上富士交差点に立ち、不忍通りを千石方向に進む。千石交差点を過ぎて暫く直進すると急な坂があり、その名を『猫又坂』という。

坂を下りきった場所にかつては川が流れ、川の名を『千川』といった。とうに暗渠になっているので見たことはないけれど明らかに川が流れていたと思われる地形なので自信を持ってそう書ける。で、その橋に『猫又橋』という橋が架けられていたのが坂の名の由来だというのだけれど、なんだか妙に怪しい。

妖怪の一種である『猫又』の名が怪しいのではなくて、橋に関する文京区教育委員会解説板の記述が怪しいのである。
 
「この坂下に千川(小石川とも)が流れていた。むかし、木の根っ子の股で橋をかけたので、根子股橋と呼ばれた」
と書かれている。木の根っ子の股で橋をかけるというのはどういう橋なのだろう。どうしても具体像が思い浮かばないのだけれど、教育委員会の委員はちゃんと思い浮かぶのだろうか。こちらの常識が欠如しているだけで、世間一般の人は、
「ああ、よくある木の根っ子の股でかけた橋ね」
などとすぐにピンと来てしまうのだろうか。

木の根も大木になると地上の枝のように大きく逞しいし、小石川はおそらく小さな川だったので、ひょっとするとこちら岸の大木の根が伸びて川を渡って向こう岸の地中にまで根を張り、村人はこれ幸いとその根を橋がわりにしたというのだろうか。でもそれは木の根っ子の股で橋をかけるのではなくて木の根っ子の股が偶然橋として使えたのであり、記述としておかしいのである。股がどうして橋になるのかがわからない。

で、記述としておかしいのがよくないと言っているわけではなくて、そのおかしさが発する怪しさをいいなあと思うのである。教育委員会によれば、後にうっかり者が川に落ちたのを妖怪猫又のせいだとする話が面白おかしく伝わって根子股橋が猫又橋と呼ばれるようになったという、ありがちなどうでもいい話があるのだけれど、そんな話より根子股橋という名前の由来の謎の方が、ずっと夢があって面白いのである。

で、猫又橋はのちにコンクリートの橋に架け替えられたのだけれど、都市河川がはまりやすい陰謀にまんまとはまって昭和 9 年には暗渠とされてしまったらしい。東京都内には無数の暗渠があって、その暗渠の中には光を失ってあらぬ姿に進化した生きものが生息している、などという怪しい作り話もある。

解説板によれば、とうとう橋すら消し去られることが決まったとき、地元の市川虎之助さんという人が橋の袖石を行政に掛け合って貰いうけ、自宅の庭に保存したものが今も道端に残されている。

そういう話もよくある話なのだけれど、虎之助さんはその後どうなったのか、今袖石がある場所が虎之助さんの庭だったのか、そうでないならどういう経緯でここに置かれているのか、そういうことの方が気になるしワクワクする。だが知る術はない。

昔はこの場所に川が流れ、自然とともに生きる暮らしの中で根子股橋が生まれ、やがてコンクリートの橋になり、さらに暗渠となって、名前と袖石にのみ往時が偲ばれる、それでも名前と石が残ったのは人々の思いが……、とここまで整理して初めて教育委員会の言う「郷土愛をはぐくむ文化財」ということになると思うのだけれど。

市川虎之助という人がどういう思いで袖石を欲しがり保存したかったのかは、同氏が自ら袖石に刻んだという二編の歌に読みとれる。教育委員会の解説板には一編しか紹介されておらず、もう一つは僕が解読したので、間違っていたら容赦。

騒がしき蛙(かわず)は土に埋(うず)もれぬ 人にしあれば如何に恨まん

長閑(のどか)なる氷川の里は戀(こい)しくも かはり行く世に逢ふよしもなし

写真は不忍通り、かつて根子股橋がかかっていた交差点。小石川が流れるあたりを氷川下と言い、製本工場が建ち並ぶ。僕が通った大学では怪我や病気になると裏木戸を出て氷川下セツルメント病院のお世話になった。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 12 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【おもしろさと年齢】

 【おもしろさと年齢】

漱石の書いたもののどこがおもしろいかわからないと本に書いている人がいた。太宰の小説をいちどもおもしろいと思ったことがないと本に書いている人がいた。

若いころ坊ちゃんや猫しかおもしろがれなかった漱石だけれど、いまはなにを読んでも飽きることがない。若いころおもしろくて全集をすべて読んだ太宰をいま再読する気にはなれないけれど、おもしろかった記憶は忘れない。

そして最近は、漱石も太宰もどこがおもしろいのかわからないと書く人の気持ちもわかる気がするようになった。

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【ちんとチン】

 【ちんとチン】

富山のことばで「じっとする」を「ちんとする」と言い「ちんとしとられ」などと用いる。この「ちん」はおそらく鎮静に座する鎮座の鎮なので、きちんとすわっておとなしくさせるときも「ちんとしとられ」と言う。

夜中に目が覚めてもぞもぞしていると「寝なさい」と言うので「眠れない」と言うと「目をつぶってちんとしてれば眠れます」などと言う。鎮座ならぬ鎮臥(ちんが)である。そういうことばはあるんだろうかと辞書を引いたら「ちんが」はないけれど、最近の辞書には「チンする」がのっている。

雪国富山の病院休憩室には見舞い家族が弁当を温めたりするため電子レンジが置いてあり「もみじ子」を温めてはいけないと書いてあったと妻が笑って言う。もみじ子とは富山でタラコのことで、もみじ子をチンすると爆発するから「チンしられんな」と言っているのである。

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【諏訪山吉祥寺と眉山】

【諏訪山吉祥寺と眉山】

六義園から足を伸ばす散歩コースで名高いのが吉祥寺である。
本郷通りに面して立派な山門があり、大きな額に名前が刻してあるのだけれど、漢字にうといので、それが読めない。山門脇に文京区教育委員会が立てた解説板があり、「栴檀は双葉より芳し」の栴檀(せんだん)であるとわかる。本郷通りに面して栴檀林と書かれた門があり、その名は寺内に僧侶の養成機関栴檀林(駒沢大学の前身)があったことによる。

山門を入って少し進むと右側に、また文京区教育委員会の解説板があって川上眉山の墓が右折した奥にあるという。元日に親たちを連れてお参りした際、あの解説板は何かと尋ねられ、
「ああ、小説家の川上眉山の墓だよ」
などと偉そうに言い、親たちも
「へ~」
と感心したフリをしていたけれど、自分も含めて、誰も川上眉山なんて知らないのである。

文学部出身の女性イラストレーターから電話があり、奇しくも結婚して川上姓になったばかりなので、
「ねえ、川上眉山って知ってる?」
と聞くと
「知らない」
という。ただ中国文学に眉山とつく山が登場したことを記憶していたのでさすが文学部だと感心した。だけど、世の中の人のほとんどが川上眉山を知らなくて、教育委員会の解説板を読んで「へ~」となんとなく感心したりするのだろう。

「眉山」という文字を見ただけで、なんとなく知ったかぶりしたのは「眉山」に聞き覚えがあり、調べたら、学生時代に『眉山』というタイトルの小説を読んだことがあるのだ。高校教科書で『新樹の言葉』を読んで以来、太宰治が好きになり、手当たりしだい太宰作品を読みまくったので、『眉山』も読んだはずなのだ。『青空文庫』に収録されているのであらためてめて読んでみたら、ああそうだったと懐かしい。

行きつけの飲み屋で「女中さんのトシちゃん」に川上眉山からとった眉山というあだ名をつけ、その女中の眉山の話なのだけれど、砂をかむような舌触りもあり、苦い薬のようでもあり、または酸っぱい胃液のような、何とも言えない後味の読後感がある太宰節(ぶし)であり、そこが好き嫌いの別れるところなのだろう。けれど、太宰好きにはたまらない佳作である。
 
そして樋口一葉が、何と美しい顔をした男かと感心し、男は男で一葉に妙に執着し、無理矢理写真を借りたり一葉と結婚すると自ら噂を流したりなどの奇行に及び、それも川上眉山だったことを思い出した。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 11 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【老朽化】

 【老朽化】

三省堂神保町本店が建て替えのため一時閉店するというニュースがこのところ話題になっている。築 41 年経って老朽化したのが理由だと聞いて「えっ」と思うのは東京で学生時代を過ごしたわが夫婦は、今回建て替えになる建物の前の超老朽化した古い三省堂で本を買っていたのだ。そして現在のビルができたときは嬉しくてわざわざ見に行ったのである

そして改めて「えっ」と驚くのは、わが夫婦はその竣工年に結婚したのであり、
「ということは私たちも老朽化したってわけ?」
と妻が笑い、
「人間もそうだけど採算ベースを考えて維持の見直しが迫られるという意味で老朽化するんだよ」
と夫は言う。

建て替え後はテナントを入れ、規模を縮小して書店は残る予定だというけれど、この世界情勢をかんがみると建設コストも膨れ上がりそうで、世界の老朽化を横目で見ながらの併走である。

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【内語と内言語】

 【内語と内言語】

ポケットの電子メモで始めた『晴耕日記』だけれど
「…内語を声を出して喋ることや書くことで置き換える…」
と読んでいる本にあって、まさにそういうことなのだろう。

この「内語」とは声や文字として外に現れない思考や黙読などの「内言語」のことでないと意味がわからない…と一瞬思ったのだけれど、自分の国でだけ通じる自国語としての「内語」のことでいいのかもしれない。

そう考えると、内語を知らない外語の人にもわかるように書いたり話したりすることで黙読を「教える─学ぶ」という対話構造に置き換えよという高度な意味になる。モノローグの読書からダイアローグの読書へ。なるほど…と書いてみた。(晴耕日記より)

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【字形と意味】

 【字形と意味】

大森荘蔵訳のウィトゲンシュタイン『青色本』を読んでいたら「遠い」ということばに引っかかって先に進めなくなった。

これは電子書籍化工程におけるタイポグラフィカルエラーではないか。コンピュータが見まちがいしそうによく似た字形だけれど、ここは「違い」でないと何を言っているのか意味がわからない。

こういうエラーを見つけて「何を言っているのかわかりません」と指摘する AI 校正システムというのはないのだろうか。哲学書の校正をさせたらいろいろおもしろいだろう。

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【赤い文字】

【赤い文字】

赤い字を見るとドキッとする。
経理上の赤字ではなくて、ドキッとするのは、まさに赤い文字そのものに対してであり、どんな場所でも赤い文字が効果的に使われているとドキッとするわけで、赤い文字は不思議な力を持っている。

六義園から最も近い神社である駒込富士神社。この神社の前に立って、まずびっくりするのは、ありとあらゆる石の建造物に彫られた文字に赤い色が擦り込まれていることである。赤というのは日常、そう目にする色ではないからこそ、ドキッとするのである。石に彫られた文字や図柄に赤い色を塗ること、こういうのを何と呼ぶのだろう。どこか別の神社でも見たことがあるような気がして、調べてみたのだけれど、この行為の名前と意図するところがわからない。

生前に墓石をつくり、生きているうちは名前を赤文字にしておく風習は聞いたことがあるのだけれど、それとは違うのだろう。柱や石碑のうしろには夥しい数の寄進者の名前が刻印されていて当然『赤い文字』で塗られているのだけれど、彼らは皆、枕を並べて江戸時代に亡くなっているのである。

駒込富士神社に行くと、その赤い色が剥げることなくいつも生々しいのにも驚く。
しかも富士山に見立てた小山の中腹や、女坂方面の目立たない祠にも、きちんと彩色が施されているのに感心するし、そしてなにより、誰かが筆を持って塗りなおしたりしている光景に出くわさないのも不思議なのである。

江戸時代に建てられた大きな鳥居の上の方まで赤く塗られており、これは大きな梯子でも使わないと無理だし、とてもひとりでこっそりできる仕儀ではない。いったい誰がいつ塗っているのかという、無邪気で素朴な疑問というのも、今の時代にはかけがえのない貴重な謎として、大切に保全したいもののひとつである。

石の刻印であっても数百年経てば薄れていくものなのだけれど、それが常に赤く色入れしてあるだけで判読しやすいのがおもしろい。染井界隈に今も多い苗字が江戸時代から多く刻印されていることもわかって楽しいし、ここの富士信仰がかなり遠方に住む人々も信者としていたことがわかって興味深い。

石が彫られた年と彫らせた人名や職業がわかるだけで歴史風俗の断片がありありと蘇ってくる。赤い文字は死者であることをも超越したちからを持っているのかもしれなくて、境内で死者が生き生きとしている神社という意味で、駒込の富士が並はずれて霊験あらたかな神社であったとしても不思議はない。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 10 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【ポケットの中の晴耕雨読】

 【ポケットの中の晴耕雨読】

2006 年 7 月に NTT ドコモから発売された hTc Z(えいちてぃしー ずぃー)という Windows Mobile 5.0 software for PocketPC Phone Edition で動くキーボード内蔵のポケットコンピュータをセットアップしてワープロがわりに使っている。携帯電話としてはもう使えないし、Wi-Fi によるネット接続も設定していないので、ただこんな文章とこんな絵が描けるタバコサイズのガジェットである。

動きながら思いついたことを芋づる式にメモする「晴耕日記」と、ごろ寝しながらの読書メモである「雨読日記」というファイルを用意し、ポケットから取り出しては言語ゲームしている。ポケットの中の晴耕雨読である。

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