【思いと言葉】

2020年11月10日

【思いと言葉】

思っても言葉にできない不思議な気持ちがある。そういう不思議な気持ちは、がんばって言葉にして書いておかないと忘れてしまう。思っても言葉にできない不思議な気持ちを忘れないよう頑張って言葉にして書きとめたのに、なぜか書いた事実まで含めてすっかり忘れてしまうことが多い。

本の仕事をすると著者にお会いして酒を飲むことがあり、
「あれ? 著書にご自分でそう書かれてましたよ」
と言うと、
「いや、書いたことはなぜか忘れちゃうんですよ」
と笑って答えられることがある。

言葉と現実はそういう不思議な関係をしている。
「書いた途端に、書いたことと現実の僕がなぜか離れちゃうんですよ」
という話はわかる気がする。言葉にしたら消えてしまう思い、言葉にならないから内部に「ある」思いとはなにか。言葉のある場はそもそも現実かという難しい話になっていく。

 
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【三つのお願い】

2020年11月10日

【三つのお願い】

つれあいに歳の離れた友人というか恩人というか、本人はどう思っているか知らないけれど、親しくさせてもらっている高齢女性がいる。

彼女と一緒に飲んだら
「わたしの目が黒いうちに夫婦別姓と女性天皇と……は制度として絶対に実現させたい」
と語気を強めて言っていたのを思い出し、
「夫婦別姓と、女性天皇と、もうひとつは何だっけ」
と聞いたら、その二つだけだと言う。

なぜ願いごとは三つだと思い込んでいたかというと、三つだと三つとも叶いそうな気がするのに、二つだとどちらか一つしか叶いそうもない気がするからだ。自分が神様だったら二者択一で恨まれるより、三つとも「オッケー」して喜ばれたいと思うだろう。

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【ワクワク】

2020年11月10日

【ワクワク】

ワクワクという言葉の語源を調べると複雑な説が、あまりに長々と書かれているのでどうでもいいことにした。そういうどうでもいい考えごとの枠を取っぱらったり、頭の痛い考え事に枠をはめて範囲を限定することで、人は気持ちの軽い重いをコントロールしている。

ワクワクを辞書で引くと、「期待や喜びで心が落ち着かず胸が騒ぐさまをいう」とあるけれど、昔は心配で胸が騒ぐさまにもワクワクを用いたとある。ほら見ろ、やっぱり気の持ちようは枠組の問題なのだ、と思うけれど「枠枠」は語源の説に含まれていない。

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【冬のボタン】

2020年11月9日

【冬のボタン】

早朝のゴミ出しに出たら清掃作業員さんが落ち葉かきをされていたので
「これから先はかいてもかいてもきりがないですね」
と徒労をねぎらい、近所をぐるっと散歩して戻った。ふと見たらカーディガンのボタンが一つ取れていてどこかに落としてきたらしい。

帰宅して
「ボタンを落としてきた」
と言ったら、
「仕方ないからぜんぶ付け替えてあげる」
と言う。申し訳ないことをしたと思い、昼食後に同じコースを散歩したら、大通りの歩道上にポツンと落ちているのを見つけた。自分で落としたボタンを運良く自分で見つけることができたという、心温まる冬のお話である。

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【項垂れる】

2020年11月9日

【項垂れる】

「項垂れる」という文字が読めないので辞書を引いたら「うなだれる」で、スマホで「うなだれる」と打つと、ちゃんと「項垂れる」と変換される。あ、そうなのか。

「項」は「こう」と読んでも「うな」と読んだことがないので辞書を引くと最初の語義に「うなじ」がある。人間の首の背中側部分が「うなじ」であって、その「うなじ」のある首である「項」を垂れるのだ。項の字の「頁」は頭を意味し、「工」は音で「こう」という読みをあらわしている。

そういえば「うなずく」は「頷く」と書き、やはり頭をあらわす「頁」を含んで、首を前後に振ることを言う。「頷」の「含」の方は口に入れることを意味し、思いを口に出さず飲みこみ、首を前に垂れ首肯して頷くのだ。うーん、深い。

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【視線】

2020年11月8日

【視線】

視線は感じるだけの線なので実線ではない。生き物の視線が確かに感じられる時、それを映像にたとえるなら光線のようなもので、認知症老人が家族に訴える超音波の存在に似ているかもしれない。感じる人にだけある。

街のあちこちに貼られた「誰かが見ているぞ!」の張り紙でも空き巣狙いに対して抑止力になるだろう。玄関前に置かれたリアルな犬の置物にも鋭い視線があり、侵入を試みる間抜けな泥棒はどきっとするかもしれないけれど、犬好きには漫画に「ジッ・・・・・・」と描かれた点線に見えてしまって、ただかわいい。

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【遅い植え替え】

2020年11月8日

【遅い植え替え】

昨年、清水の珈琲焙煎店からいただいたシクラメンを休眠させず夏越えさせたら健気に咲いている。うまくいくかどうかわからなかったので、そのままにしておいた簡便な樹脂製の鉢が小さくて気になるので、ひと回り大きい陶器製のを買ってきた。

植え替え時が、どうも見た目でひと月ほど遅い気がしたけれど
「植え替え失敗で死んじゃったらごめんね」
と心の中で呟きながらえいやっと実行したら、盛大に水を上げ、花芽を上げ、斑入りの葉を茂らせている。多分うまくいったのだろう。

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【中表】

2020年11月8日

【中表】

ウラがオモテになるように重ね合わせた布を筒状に縫ってひっくり返す裁縫作業を眺めるのが好きだった。子どもながらに世界は面白い構造をしていると感心した。ウラがオモテになるような重ね合わせ方を中表(ナカオモテ)という。

「愚か者ほど怒りという罠にはまりやすい」と言われて、「みんな愚か者なのだから怒らない者が損をする、だからすすんで怒るのだ」と愚か者が言う時代になっている。

ハロウィンについて「そもそも、なんで若者は渋谷に集まり、なんで渋谷じゃなきゃダメなんでしょう」と聞かれた若者が、「そもそも、あなた方マスコミがカメラを持って渋谷に集まるからですよ」と言うので笑った。

マッチポンプの時代はナカオモテの構造になっている。ナカオモテで縫い合わせた布は「そもそも」を使うと上手にひっくり返る。

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【交番のある交差点】

2020年11月8日

【交番のある交差点】

午前五時前の交差点を「ばばばん、ばばばん」と空ぶかししながらバイクの集団が通り過ぎた。角に交番があるので警官をバカにしているのだ。

そのちょっと前にはネコが「ふんにゃーーーっ」「にゃあおーーーっ」と奇声を張り上げ合って喧嘩しており、ずいぶん長いこと騒ぐので目が覚めた。サッシ窓を閉め切っても聞こえるのだから相当な声量で呆れた。交番前だからハッスルしたのだろうか。

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【生活の溝】

2020年11月8日

【生活の溝】

レコード針がレコード盤の溝をたどることで、その振幅から振動の記録として音を取り出すように、人が人の踏み分けた道をたどることで、地域の暮らしの成り立ちが再生できる。散歩は観察と情報の整理から、いわば時間的世界を再生する読書なので、自分がレコード針になったように歩く。

先祖から受け継いだ広大な土地を利用し、地域に受け入れられ継続可能で小さな事業を興すことに成功した人がいると、その影響はまわりに及ぶ。その成功をたよって食べていける人たちの小さな生業(なりわい)が生まれ、増殖して町ができていく。そうやって同業の生産者が集まり、そうやって同程度の生活者が集まり、暮らしの成り立ちと気風という時間的積み重なりが地域に刻まれていく。

なるほどそうだったのかもしれないな、という気づきを再生しながら家並みを抜けて大通りに出たら、明治の頃から著名な文化人が集い、地域の成り立ちに大きな役割を果たした有名書店のビル解体が始まっていた。ネット検索で未来に針を下ろすと建て替えだそうで、新しいビルの一階に売場面積を増やして再開予定だという。

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【決め事のしくみ】

2020年11月7日

【決め事のしくみ】

昨日の日記で指小辞(ししょうじ)とは語尾に「〜っこ」をつけることであり、日本的にいえばアーティキュレーション(articulation)は「節っこ」だろうと書いた。

アメリカ大統領選挙の泥沼状態を見て疲れながら、結局はどの程度道徳的に、社会が貧富・強弱・利害の格差差別を許容するかの基準選びをしているのだなと思う。

道徳的基準といえばノーマル(normal)という言葉もアーティキュレーションと似た出自で、norm すなわち norma すなわち standard すなわち「基準」に接尾辞「-al」がついて normal になったわけで、日本的にいえばノーマルは「基準っこ」なのだ。

ヒトが決めることはヒト同士が手を打った利害争奪戦の結果であり、政権が変わると「道徳っこ」的にどこまで格差差別を許容するかの基準が変わる。そして社会的に暫定的な決め事には、たいがいあいまいに「〜っこ」がついている。

 

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【冬へ】

2020年11月6日

【冬へ】

明日は立冬。暦の上で冬が始まり、11 月 7 日は「ココアの日」ということになっている。一年中、朝食にココアを添えるようになって数年が経った。夏場は冷たいミルクココアだけれど、いつの間にか温かいココアを出すようになっている。

明日のココア用の牛乳がないので買いに出た。駅前のパチンコ屋が閉店し、空っぽになった店内をスケルトンにしたまま白塗りしているので、何になるのかなと思ったらドラッグストア『ぱぱす』だった。坂道を急ぎ足でのぼっていく男女は JR 山手線ではなく東京メトロ南北線に乗るのだろう。なんとなくそんな気がする。

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【アーティキュレーション】

2020年11月6日

【アーティキュレーション】

つれあいが紙ロール式の手回しオルゴールに熱中しており、動画を YouTube にアップするのを手伝いながら眺めていると、アーティキュレーション(articulation)という技法の勉強になってなるほどと思う。

articulation という言葉は関節や節目をあらわす artus の指小辞(ししょうじ)で、東北地方でビールを「ビールっこ」と愛着を込めて言うのと同じ「artus っこ」なのだ。アーティキュレーションをつけて、ポキポキしたオルゴールの音に強弱と抑揚をつけている様子は、日本的に言えば「節っこ」をつけているのだと思われる。

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【一人親方の教え】

2020年11月6日

【一人親方の教え】

一人親方という言葉がある。建築業などにおける個人事業主的実労働者のことで、相撲に例えれば、部屋持ち親方ではあるが所属する力士が自分一人なので、親方が現役の弟子を兼ねているという一人部屋状態のことである。これは協会規則的に許されるならありうるが、概念的な事業形態として成り立っても現実として運営するのは難しい。

一人親方は早朝から土俵に下りて稽古する弟子と、座敷の上にあぐらをかいて指導する親方の二役を兼ねなければならない。しかも弟子役をするときは、ひとりで一人相撲を取らなくてはならない。

若い躁鬱病者が書いた本を読んでいて興味深いという意味で非常におもしろい。自分で自分をコントロールし、希死願望と戦って自分自身を生かし続けなくてはならない彼は、一人相撲を取りながら一人親方を務める努力をしている。

よき人の生き方として「自らの主(ぬし)であれ」と言われるのは、「一人相撲を取る自らの親方であれ」と言っているのだ。自分を機械のように見なして躁鬱を自己制御するのは、一人親方的事業主になるということだろう。たしかに会社勤めは向いていないかもしれない。

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【音楽と歩行】

2020年11月5日

【音楽と歩行】

ダリウス・ミヨー(Darius Milhaud)の『スカラムーシュ』第3楽章「ブラジルの女」を頭の中で再生しながら歩くと遠い道も近く感じられ、重い荷物も軽くなる。そういう曲は貴重だ。

手ぶらで軽い身なりの時は、もう少し向こうまで行ってみようという気になる。頭の中で再生しながら歩いているうちに鼻歌になり、いつの間にかとなりを歩くつれあいも鼻歌で唱和していた。伝染性もある。

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