◉武蔵野のコンビーフ

2018年9月8日
僕の寄り道――◉武蔵野のコンビーフ

8 月 27 日、友人から

熱 帯 夜 静 か に 消 え る 赤 い 月

という自称俳句もどきを添えて「今朝、見た?」というメールが届いた。

今朝の NHK ニュース「朝ごはんの現場」コーナーで埼玉のハム・ソーセージ店一家の朝食を見たか、あのコンビーフと温泉卵をのせたご飯が食べたい、お義母さんがいる老人ホームの近くらしいから「食べてみてよ」(買ってこい)…とソフトバンクのお父さん犬のような書き方をしている。

義母がいる老人ホームの近くといえば近くではあるけれど、武蔵野は広い。東京砂漠などと言うけれど、東京 23 区は起伏に富んでいて坂の上り下りが多い。そのぶん街に表情があるので遠い道も遠く感じさせない長所がある。それに比べて埼玉の武蔵野は平坦で表情がない。大好きな古歌に

む さ し の は 月 の 入 る べ き 山 も な し 草 よ り 出 で て 草 に こ そ 入 れ

とあるけれど、埼玉のハム・ソーセージ店を探す買い物も、草より出でて草に入るような心細さがある。

旧中山道(大宮)

9 月 8 日雨天決行、16 時にコンビーフと温泉卵と自家製糠漬けと酒を持ってうかがいますと約束したのでこれから買いに出る。

武 蔵 野 に 満 月 の せ る コ ン ビ ー フ

(2018/09/08)

追記:

残念ながらコンビーフは開店早々に完売したそうで、試食だけさせてもらい、あれこれ相談しながらご飯に合いそうなのを買ってきた。

ドイツ製法ハム・ソーセージ工房 kazusaya


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◉風立ちぬ

2018年9月6日
僕の寄り道――◉風立ちぬ

「性格は関係的な概念である」と心理学の先生が言っていてその通りだなと思う。性格は相手の中にあるのではない。そういう人間だと決めつける自分の考えを相手に投影するので、相手がまさにそういう人間のようにこちらに働きかけているように見えるだけだ。他人に感じる他人の性格とはそういうもので、これはアフォーダンスとは何かの説明によく似ている。

他人に対して「この人はいつもどうしてこんなにバカなことばかり言ってくるのだろう」と思うのは、自分に対してその人の言うことが都合の悪いことである確率が高い。簡単に言えば相性が悪いのだろう。逆に「この人は頭が良くてどうしていつもこんなに気が利いているのだろう」と思う人もいて、「あの人は頭の良い人ですね」と第三者に褒めると「えっ!」と言って噴き出しているので、頭の良さも人間相互の相性なのだろう。

頭の良し悪しはその人の中にある特性ではなく、くらしの中で相互に感じあう関係的な概念である。「この人はいつもどうしてこんなにバカなことばかり言ってくるのだろう」とムッとするたびに、ただ相性が悪いだけだろうと思ってみると無駄に腹を立てなくて済む。

風 立 ち ぬ 心 の 旅 人 今 は 秋

(2018/09/07)


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◉道

2018年9月6日
僕の寄り道――◉道

道は歴史物語になっている。汗を拭きふき道を辿って再生しながら歩いていると、「過去のいまここ」の断片を繋ぎ合わせた時の流れを心の中で上映している自分がいる。

清水区楠。巴川と瀬名川の合流地点。

心の中で上映される映画は、一人ひとりの勝手な夢想、こうあってほしいと思う我儘、こうだったに違いないという思い込みによる傲慢、そして他人から学ぶ学問の浅薄、それらを正直に反映したものになっている。

若宮白髭神社のある一角(清水区楠)

まず歩いてみる、歩いた道を思い出してみる、思い出しながら地図や地形図や航空写真を眺めてみる、学者や地域の研究者が書いた本を何度も読み返してみる、自分が心の中で上映した映画を真摯な批判的態度で観なおしてみる。

若宮白髭神社と楠自治会館(清水区楠)

ああそうだったのか!と思う。思い込みが強すぎて、自分は大きな間違いをしていたと消え入りたいような気分になることもある。

興福寺(清水区楠)

しがみつく名や地位や過去があれば恋恋として修正不能になる、間違いに間違いを上塗りして嘘を強化する、平然とした態度に見せかけつつ新しい正しさを黙殺する、といった愚かしさが歴史を玩弄する者が囚われる陥穽になっている。

堀込若宮八幡宮(清水区堀込)

歴史という道は慚愧とともにあって常にいたましい。

吉川氏墳墓(清水区吉川)

フ ェ リ ー ニ の 『 道 』 の テ ー マ と 秋 茜

(写真は2018/09/05。実はすべてが一本の道沿いにある)


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◉はじめての清水

2018年9月5日
僕の寄り道――◉はじめての清水

新しく開設された JR 草薙駅北口(学園口)にはじめて降りてみた。「草薙駅の駅舎の改築工事及び南北自由通路の新設工事が完成し、平成 28 年 9 月 18 日(日)に供用開始しました」と静岡市の市政情報にあるので、すでに 2 年前にできていたわけで、自分にとっては「新しい」けれど郷里の人たちにとってはもう新しくない。

草薙駅北口に出てみたのは清水区楠の町を歩いて写真を撮る用事があったからで、そんな用事がなければ降り立つこともなかっただろうし、楠の町並みも生まれてはじめて歩いた。

 用事を済ませて草薙駅脇の踏み切りを渡り、JR 草薙駅南口(県大・美術館口)から静岡鉄道静岡・清水線の草薙駅に出て新清水行きの電車に乗った。車内放送がアニメ声なので見回したらちびまる子ちゃんのラッピング電車だった。

狐ヶ崎駅で降りて旧東海道を歩き、上原跨線橋を越え国道1号線を渡って国道警ら隊脇から清水区吉川に入り、堀込若宮八幡宮と吉川氏墳墓の写真を撮って狐ヶ崎駅に戻った。

狐ヶ崎駅から新静岡駅行き静鉄電車に乗ったら、またちびまる子ちゃんのラッピング電車だった。静岡駅南口、水の森ビルで郷土誌の編集会議に出席し、静岡市在住で同い年の女性に会ったので「今日はじめてちびまる子ちゃんのラッピング電車に乗った」と言ったら「わたし一度も乗ったことないんです」と言う。

は じ め て の 生 ま れ 故 郷 に 秋 の 風

(2018/09/05)


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◉生誕100年違い

2018年9月3日
僕の寄り道――◉生誕100年違い

高橋是清は 1854 年 9 月生まれなので、1954 年 9 月生まれの自分より丸 100 歳年上ということになる。めでたい。

赤坂で新刊書の打ち合わせがあったので、東京メトロ南北線と銀座線を乗り継いで青山一丁目駅で下車し、高橋是清翁記念公園内を抜けて歩いてみた。

台 風 の 曲 が り 具 合 に 薬 研 坂

(2018/09/03)


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◉鶏頭

2018年9月2日
僕の寄り道――◉鶏頭

鶏 頭 の 植 え も 植 え た る ひ と 区 画

(さいたま市見沼区御蔵にて

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◉御蔵の市神様

2018年9月2日
僕の寄り道――◉御蔵の市神様

震災のあった 2011 年 3 月 11 日の翌日、動かない JR 山手線乗車をあきらめ駒込駅から地下鉄南北線に乗り、埼玉高速鉄道へと乗り継いで浦和美園駅で下車し、国際興業の臨時バスに乗って古道らしい地名の残る道を辿り、さいたま市見沼区にある老人ホームまで義母の様子を見に行った。

老人ホーム近くで昼食どきになったのでバス通り沿いにある回転寿司店に入ったら、寿司皿をのせて回るカウンターと寿司職人と取り囲む客たちが一体になって余震で揺れていた。

寿司店を出て老人ホームへ近道するよう、幅員 3 メートルほどの脇道に入ってみたら、なんだか懐かしい古道の雰囲気があって道の曲がり具合に生活の歴史的な積み重なりを感じる。町名はさいたま市見沼区御蔵になる。


律令国家の直線道路はもちろんとして、鎌倉時代の街道も往時の姿をとどめていることは少ない。埼玉県内にあったとされる鎌倉街道は上図の 1 から 4 が上道ともいわれる本街道であり、二重ではなく単点線で書かれているのが支道、×印が「鎌倉街道といわれる場所」になる。都内でも裏通りを歩いていると「鎌倉街道だったといわれる」という教育委員会の案内板が「点在」する。そういうたくさんの支道もまた鎌倉街道である。

さいたま市見沼区御蔵のこの道も鎌倉街道と呼ばれ、別名「市道(いちみち)」という。老人ホームを訪問した帰りはよくこの道を歩いたが、高みへ登ったとっかかりに鳥居があってその奥に古びた祠がある。

中世の市場について書かれた「市場祭文(いちばさいもん)」に「武州足立郡片柳市(いち)」という市があったとある。中世で新たに市が立てられるときは修験者が来て市神様(いちがみさま)を祀り、市がそもそも神様のはかりごとで開かれるという沿革から始めて市神様のご利益を説き、市の繁栄と百姓の幸せを祈った文書が祭文である。日付は1361(延文六)年になっている。

市場分布図を見ると「片柳」とあるのがこの市で、市神様の祠は今もその場所に残っている。

図版および参考は『大宮のむかしといま』昭和五十五年十一月三日、発行・大宮市より

【関連する日記】
◉大字御蔵
◉街道と足湯
◉郷蔵稲荷と鎌倉道

市 神 と 鶏 頭 の あ る 古 道 か な

(2018/09/01)


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◉連打と重複

2018年9月1日
僕の寄り道――◉連打と重複

脳科学の本を読んでいたらページの真ん中にポツンと三角形があってその中に3行に改行された短文が書かれている。次のページをめくって指摘されるまで、2行目行末の「の」と3行目行頭の「の」が重複して、「の」がひとつ余分にあることに気づかない。ほとんどの人が見落としやすい間違いであることを示すためにそういう仕掛けになっている。やられた。

パソコンを手探りするように使い始めてから四半世紀のあいだ、日本語は「かな入力」をしてきた。「かな入力」には「ローマ字入力」にはない打鍵数が少なくて済むというメリットがあるからだ。

とはいえ「かな入力」のできない道具を使う必要から「ローマ字入力」もできるので両刀遣いでやって来た。そして最近「ローマ字入力」のメリットの方を強く感じるようになって、すべて「ローマ字入力」でやっている。

「ローマ字入力」にしてから「とんんでもない」とか「びっっくりしました」のような撥音(はつおん)や促音(そくおん)の重複がよくある。送信したメールを見返してとんでもない間違いにびっくりし、文字の重複を見落としやすい自分に赤面しつつ驚いている。

と ん ん で も な い び っ っ く り し た ら 字 余 り に

(2018/09/01)


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