電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
▼金木犀の咲く頃
テレビでも新聞でもインターネットでも金木犀という言葉が頻繁に出てきて、世間では金木犀が花の盛りを迎えていることにようやく気づいた。
台風18号通過後はしばらく風の強い日が続いたので、町を歩いても香りを含んだ空気が乱されて気づきにくかったのかもしれなくて、午後から買い物を兼ねて散歩したら、穏やかな午後だったせいか町のいたるところから金木犀の香りが漂ってきた。
↑
西中里公園の金木犀。
香りというのは忘れていた記憶を引き出す手段としてとても有効かもしれなくて、カタカナ名のついた気取った香りなどではなく、昔懐かしい田舎暮らしの臭いを嗅がせたら、我が家の年寄りたちの記憶再生にも絶大なる効果があるんじゃないかと思う。
義父が通うデイサービスでは、センター内で行われる夏祭りの模擬店で、センター長自らが焼く焼き鳥が毎年年寄りたちに大人気だというけれど、タレの焦げる香ばしい香りが年寄りの脳を活性化させていることもあるのではないかとも思う。
↑
聖学院小学校脇の坂と金木犀。
路地裏を金木犀の香りが流れてくる方向をたどりながら散歩していたら、郷里清水では金木犀が香る頃、あちこちの神社でお日待ちや秋の祭礼があったことを思い出した。そして旧東海道入江商店街『タガヤ肉店』のそばに見事な金木犀が咲くお宅があって驚いたこと、入江岡跨線橋脇の淡島神社で庵原砥鹿神社のお日待ちに連れて行ってくれるという友だちを待つため時間潰ししていたら、境内に星のような金木犀の花が散っていたことなど、思い出が香りにたぐり寄せられように芋づる式に蘇ってきた。
◉
▼小さな本屋
子どもの頃、親に本を買ってやると言われると近所の小さな本屋に行き、児童書棚のほんのわずかな在庫の中に自分の読みたい本がないかと一所懸命に探した。その小さな書棚の中に世界の全てが集約されているかのように満足しつつ本探しに没入できる、子どものサイズにちょうど良い本屋が町にあるのは幸せなことだ。
↑
豊島区巣鴨にて。
大人になっても小さな本屋に入り、わずかな在庫の中から必ず一冊、読んでみたい本を買おうと決めて、集中して本探しをするのは楽しい。そしてそうやって探してみると、わずかな在庫の取りそろえ方に、他の書店と明らかに違う店主の嗜好が反映されているととても嬉しい。
思想的な主張がある本屋に限らず、小さいということは必然的に個性を帯びてしまうのかもしれなくて、それが小さいということの良さの一面かもしれないと、散歩の途中で見つける小さな本屋に入るたびに思う。
▼虹と台風
台風18号が通過した後も風が強くて、東京の町は風で引きちぎられた落ち葉が舗道を埋め尽くしていた。
↑
台風通過後の舗道。六義園脇にて。
仕事で外出した際に通る道沿いに、不思議なレインボーカラーをしたオブジェを設置しているお宅がある。虹の七色を取り出した布テープで作った三連風車のようなのだけれど、だいぶ古びたせいもあってか、回っているところを見たことがない。
↑
不思議な三連風車。
台風通過後の強風の中、打ち合わせに出かけたら、突風に煽られて一瞬回転し、見事な虹色の円盤になり、あまりに綺麗なので唖然とした。
円盤の中に発生した虹の配色が一定ではなく変化し続けているように見え、その視覚効果に興味があったので、ムービーにおさめてみようと思ったのだけれど、しばらく待っても同等の突風が吹かないので断念した。
帰宅後ネットで検索したら最近同じものを買われた方がおり、パラシュート素材の全天候型として作られたポーランド製風車だという。
▼文字・言葉・意味
文章を読むことはできても、文章の持つ意味を取り出せなければ十分じゃない。文字が読めても、文字が集まり繋がって文章になっていることがわからなければ意味がない。さまざまな線の集まりでできた図形が認識できても、それが文字という記号であることをわからないことには伝達が始まらない。
↑
住まいのあるマンション前に停まっていた介護タクシー。
検索してみたら北区から来ていた。
今後のためにメモしておいた。
年をとるとだんだん文章が指し示す意味がわからなくなり、文章自体が読めなくなり、文字のつながりを理解しなくなり、文字自体が読めなくなるという過程をたどることもあるように思う。義父母がその過程を着実にたどっており、子どもが文字に興味を持ち、読み方を覚え、文章の意味を理解するようになる過程を逆にたどって年老いていく。
↑
巣鴨地蔵通り商店街近くの鰻屋にて。
大きく読みやすく簡潔に書けば、それが理解の助けになる時期が年寄りにはあり、そういう時期にあることが外出の妨げにならないよう、巣鴨地蔵通り商店街界隈を歩いていると、年寄り集客のためさまざまな工夫が商店主によって試みられていて面白い。文字を大きく見やすく書き、指し示すもののそばに添えて理解しやすくするのも良い工夫だと思い、家庭での老人との会話もそのようなものであるべきだと理屈ではわかっているのだけれどなかなか難しい。
▼台風一過とかすべ
台風18号が列島を縦断して北海道方面に抜けて行き、風は強いものの青空が広がったので午後3時過ぎに買い物を兼ねて散歩に出た。
↑
台風通過後の駒込駅前。
巣鴨地蔵通り商店街に行くと年寄りが喜びそうなものが何かしらあるので有難い。幼い頃北海道で過ごした義母が喜びそうなものがないかと探したら、かすべ(エイ)の煮付けがあったので手みやげに買った。年寄りというのは最近のことは忘れても幼い頃のことは良く覚えていて感心する。
↑
台風通過後の巣鴨駅前。
母が営んでいた飲み屋では干物のエイヒレをあぶってつまみで出していたが、生のままのを煮たかすべの煮付けはごく最近になって食べた。子ども時代によく食べたなら確かに呆けが深まりゆく老人になっても忘れないだろうと思うくらいにおいしいものだ。
↑
台風通過後の地蔵通り商店街。
台風が接近しているということで休業している店が多くて商店街は閑散としていた。まばらに歩いている年寄りが風に煽られてふらついているのを眺めながら、病院のトイレで大呆けショーを演じて疲れているであろう義母の元へ、かすべの煮付けを持って帰る。
【もう一度「いりえおか」】
【もう一度「いりえおか」】
静岡市在住の友だちから郵便物が届き
「またつまらないものを送りつけてきたと笑われるかもしれませんが…」
と手紙が添えられた小さな紙袋が入っており、開けてみたら笑うどころか泣けた。
↑
静鉄が青葉通りの催事で販売していたというキーホルダー。
生家に最も近い静岡鉄道入江岡駅。公には静岡鉄道静岡清水線で最も乗降客の少ない駅だけれど、個人的には帰省のたびに乗降したので最も馴染み深い駅であり、母親が倒れた2003年夏から2005年夏に他界するまでの思い出は、入江岡駅跨線橋とともにあった。
↑
2001年12月30日(左)、2002年12月31日(左)。
↑
2003年1月2日(左)、2003年4月20日(左)。
↑
2003年9月15日(左)、2003年10月4日(左)。
↑
2003年12月7日(左)、2004年6月26日(左)。
↑
2004年10月6日(左)、2004年10月6日(左)。
↑
2004年10月15日(左)、2005年1月9日(左)。
無人になった生家の処分も終わり、もう清水に帰省しても入江岡駅で降りることもないかな、と思うと最も足が遠のきそうな駅であることに一抹の寂しさもあったので、一生ものの記念品をもらったようで嬉しい。デジタルカメラというものを手にしてから撮り溜めたアルバムをめくり、郷里で待つ親のいなくなった2005年までの入江岡を振り返ってみた。
◉
【米を炊く夢】
ここ数日同じような夢を見続けている。見知らぬ男性たちと一つ屋根の下で暮らし、寝室こそ小さな個室があるものの、台所と一体になった食堂は共同という住まいで、自然発生的な役割分担をしながら生活を共にする夢だ。
↑
稲刈りを終えた静岡県清水大内の田んぼ(9/30)。
夢の中に小柄でスキンヘッドの男性が毎回出てきて、
「ゆうべはサンゲタンを作ったから今日はとびきりうまいケジャンでも食べさせてやろうかね」
などとニコニコしながら言い、料理のうまい彼は在日の韓国人なのだ。
「その前にちょっといつものあれをするから」
と自室に戻るのを見て、彼が難病を患っていることを思い出した。一日に何回か痰の吸引器を使わないと、呼吸困難になってしまうやっかいな病気なのだ。
皆が手分けして手料理にとりかかったので、自分は何をしようかと考え、とりあえず得意な米研ぎと飯炊きでもしようかな……などと思ったところで目が覚めた。夢の中の男所帯でわいわいと話しながら囲む食卓が楽しくて、夢から覚めても、みんな元気でいてくれればいいななどと思うし、その夢を見なくなったら登場人物たちはどうなってしまうんだろう、などと奇妙に寂しい。
↑
まだ稲刈り前の田んぼ。静岡県清水大内にて(9/30)。
秋になり、ありがたいことに何人かの友だちから米が届き、我が家もこれから新米の季節が始まる。
義父は食べにくいから食事はパンにしてくれと言い、家にいるときはどんなおかずでも手づかみでパンを食べている。義母は食欲がないからちょっとにしてくれと、食事時になると娘にしつこくまとわりついて懇願し、仏様のご飯程度にしか米を食べなくなった。親たちの消費量が減った分、頑張って米を食べながら、今日は新米だと大喜びしつつ大勢で食卓を囲んだ頃を懐かしく思い出す。
◉
▼秋のマーチ
秋になって、六義園運動場で鼓笛隊によるマーチングバンドの練習が始まり、笛太鼓の音が賑やかに聞こえる日々が続いた。
↑
小学生たちがベンチに置いた楽器。
小学校併設のデイサービスに通う義父の元に、毎年必ず招待状が届く。運動会当日に限って郷里静岡県清水への実家片付け帰省にかち合うことが多く、ここ数年、義父と娘の二人だけで運動会を敬老席から見ていたらしい。
↑
子どもたちが小さいのでいつもより広く見える六義園運動場。
実家片付けも終わったので、今年は一緒に見に行こうと思ったが、このところ身体機能が衰えて元気のない義父は、昼のあんパンを食べるのに忙しいので行きたくないという。しかたがないので年寄り抜きで敬老席から秋のマーチを聴いた。
【塩田川花模様】
手つかずの自然が身近にある暮らしは良いものだと思うけれど、暮らしを何とか美しい環境の中で営みたいと、地域住民が働きかけて作る自然というのも、乾いた心にしみるように美しく感じることがある。
↑
塩田川の河原に咲いた花々。
静岡県清水大内。墓参り帰省のたびに歩く塩田川沿いに、秋の花々が満開になっていた。花壇のように区画され、手入れの行き届いた環境美化もいいけれど、こういう気取らない季節の彩りもまた、生まれ故郷ということもあってか、肌寒い雨の日でも心に温かい。
↑
塩田川土手にて。
遠くから並んで歩いてこられるご夫婦があり、ご主人は一度倒れられたことがあるのかな、と歩く姿を見つめてしまう。きっと地域美化に取り組んでおられる住民の仲間なのだろうなと思い、すれ違う際に会釈したら「こんにちは」という挨拶がかえってきた。花の道を歩きながら二人の後ろ姿を振り返る。
◉
【塩田川の秋と桜】
静岡県清水、高部地区を流れる巴川の支流塩田川は幼い頃から親しんだ懐かしい川だ。
山から湧き出す水を集めてわずかな距離で本流に注ぐ小さな川なのでもともと水は綺麗だったのだけれど、昭和三十年代はゴミを捨てる不埒者も絶えなくて、川遊びもゴミと悪臭をかき分けなくてはならず、幼い心に刻まれた記憶も少しだけ痛ましい。
東京の小学校を卒業して生まれ故郷に戻り、東京から訪ねてきた友人が、近場で川釣りができる場所がないかと聞くので、塩田川のゴミが目立たない川辺に案内したら魚影の濃さに驚き、婚姻色で虹色に輝くヤマベを釣り上げて大喜びしていた。
「こんなにいい川があるのに釣りをする人がいないんだね」
と友人は不思議そうに言っていた。
↑
塩田川の河原に群生するジュズダマ、
友人が毛針吊りでヤマベを釣ったちょっと上流あたり。
そんな塩田川を久しぶりに訪ね、美しく整備された桜並木と川の景観にびっくりし、「『街道を(ちょっとだけ)ゆく』北街道編:塩田川」と題して日記を書いたのが2005年04月18日のことだった。末期がんになった母は最後の日々を清水で一人暮らしして過ごしており、介護帰省して帰京の途上、寄り道して川沿いを歩いたのだった。あの日は桜が満開だった。
↑
塩田川の土手で開花した桜。
9月30日、その母の墓参りに向かうため北街道塩田川橋たもとから川沿いを歩いたら、桜並木に一輪桜が咲いて秋の雨に濡れていた。墓参りというのは人の心を少しだけ鋭敏にするようで、目の前を素早く横切って飛び去る蝶や、巣を揺さぶられて逃げまどう蜘蛛や、こちらに向かって咲きかけているように見える花にすら、一瞬心が共振することを面白く思う。
◉
【大内田んぼの四ヶ月】
今年の5月30日、静岡県清水に実家片付け帰省をし、雨の中、母親の墓参りに向かう途中、田植えの遅れた田んぼでひとり田植えをする女性を見た。実家片付けの最中にぎっくり腰になったせいもあって、お百姓というのはつくづく大変な仕事だという同情の気持ちとともに、田植え風景をしみじみ眺めたことを忘れない。
↑
2009年5月30日の田植え
長い梅雨が8月に入ってようやく終わり、生育の遅れを取り戻すように夏の日射しを浴びている稲田を8月8日と19日の帰省時にも見たが、やはり田植えが遅かった田んぼでは稲の生育も少しだけ遅れているように見えた。
↑
5月30日(左)と8月8日(右)の田んぼ
秋の彼岸には帰省し損ない、9月30日に雑誌編集会議を兼ねて清水帰省した。もう稲刈りを終えた田んぼを見ることになるかもしれないと思いつつ墓参りに行ったら、隣の田んぼでは稲刈りの終わった部分もあったが、田植えが遅かった田んぼではまだ刈り取り前だった。
↑
9月30日の田んぼ
もう少し日数を経た後、この田んぼでも稲刈りが始まるのだなと思ったら、雨の中ひとり田植えをしていた女性が、またひとりで稲を刈る姿が思い浮かんでしまい、お百姓というのはつくづく大変な仕事だという同情の気持ちとともに、痛かったぎっくり腰のことを思い出した。
↑
9月30日、隣の田んぼ
【10月のカレンダー】
月1回開かれていた『季刊清水』編集会議が終わり、いつもなら
「では次回編集会議の予定はどうしましょうか」
という話しになって一ヶ月後の会議日時を決定するのだけれど、顔を合わせての編集会議は終わって、あとはネット上でユーザーグループ機能を使っての編集作業となる。
↑
電脳六義園通信所のために描いた「10」
子どもの頃からそうだったのだけれど、人と別れるときに次に会うための約束がないと寂しい。「また来るよ」と言われれば「いつ、いつ来るの」としつこく食い下がって大人を困らせたものだった。好きな人に次の約束が貰えるのが、なによりも嬉しかった青春時代もあった。
↑
9月30日、20時36分発ひかり484号車内で描いた10月のカレンダー
2005年夏から丸四年かけた、静岡県清水への実家片付け帰省も、片付け途中のまま鍵をかけて帰京するときに、「また帰ってくるね」と次の約束をしたようで心安らぐものがあったような気もし、それゆえにだらだらと長くなったのかもしれないなと、次の帰省の約束がなくなってしみじみ思う。
◉
次ページ » |