◉年相応

2018年6月30日
僕の寄り道――◉年相応

思えば1990年代のパソコン通信に始まり、2000年代のインターネットを通して、ほんとうの名前も知らない不特定多数の人と、コンピュータを通じて繋がって来た。そういう社会が当たり前になるとさまざまな弊害も見えて来て、最近はいろいろと思うところが多くなった。

良いきっかけがあり、 
「いいなぁと思ったので、自分もいつのまにか習慣化していたインターネットサービスの<あれ>も<これ>もやめてみた」
という顛末は「◉踏み切り」と題して2018年6月5日の日記に書いた

心配してメールをくれた友人が一人だけいて、あれこれ説明らしい返事を書いたあと、
「実際に会ったり電話したり物を送ったりメールのやり取りをする友人の中にソーシャル・ネットワーク・サービスをやっている人がほとんどいないということです。僕のブログを読んでいる友だちもほとんどいません (^_^;)」
と書き添えた。リアルな友達とはリアルな手段でつながっており、バーチャルな手段でつながっていないことが多い。

昨日は中学高校で一学年後輩になる友人から電話があり、ツイッターのアカウントがなくなったので弟さんといっしょに心配していると言う。電話があったとき机に座ったままうとうと居眠りをしていたので、ややこしい説明をするには頭がボケており、どうしたのかと聞かれたので
「年相応に面倒くさくなったから」
と笑って答えた。

離れた場所で聞いていた妻が
「そうだよね、年相応に面倒くさくなるよね」
と笑ってウケていた。たしかにとっさに出た言葉としては嘘もなく簡潔でいい。これからは「年相応」という言葉を葵の御紋の印籠がわりにしようと思う。

そんなことがあって今朝ふと思ったのだけれど、「いつのまにか習慣化していたインターネットサービスの<あれ>も<これ>もやめてみた」らずいぶん心に変化がある。集中してものが考えられるようになり、気が散らないので読書が捗る。そして毎日届く新聞を読むのがこんなに楽しいものだったのかと思う。人の話がしっかり聞け、筋道だって話をすることも苦にならない。拡散していた自分が一つの自分に収斂して来たような気分がする。

香山リカが『多重化するリアル─心と社会の解離論』ちくま文庫で書いているけれど、解離性障害や離人症に似た傾向がうっすら全ての現代人を覆い始め、驚くように異様な若き犯罪者の出現を頻繁に見るのも、IT 技術普及による傾向であるような気もする。自分相応という歯止めも効いていないかもしれない。

今日は近所のコミュニティホールでオーボエとピアノの無料コンサートがあるので、妻と二人で聴きに行くことにしている。(2018/06/30)


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