「そういうことにこだわらない」

僕の寄り道――「そういうことにこだわらない」
(2016年7月16日)

埼玉の特養ホーム入所中の 2010 年に他界した義父は、身内だけの葬儀を埼玉で行い、お骨は清水と富山の寺に分骨した。義母と妻とぼく、そして妻の従姉ふたりの五人だけという小さな葬儀だったが、埼玉県内で探して真言宗の僧侶に来ていただいた。

わが家の墓は静岡市清水区にある保蟹寺(ほうかいじ)で曹洞宗、親戚の墓は清水区高源寺、清水区宝久寺にあってともに臨済宗、そのほか友人たちは清水区實相寺で浄土宗、清水区本要寺で日蓮宗、清水区新定院で臨済宗、などとなっており、真言宗の葬儀は義父で初めて体験した。義父のご先祖の墓は富山県射水(いみず)市の金胎寺(こんたいじ)にある。

真言宗というのはどうも葬儀の細部がいままで体験したものと微妙に違っているようで、お経も「のうまくさんまんだばざら…」のような不思議な言葉が混じるし、密教という名前に対する先入観もあるせいか、あれこれ所作が神秘的というか荘厳に感じる。妻にそう話したら
「ああおもしろかった、真言宗だったことを誇りに思うわ」
などと不思議な感動をしていた。

ときおり買い物に出る田端銀座商店街、その近所に大龍寺という寺があり、墓地には正岡子規の墓がある。田端文士村があった土地なので、子規の意向でこの寺が選ばれたのだと思っていたのだけれど、子規の希望が土葬だったそうで、碧梧桐(河東)と左千夫(伊藤)が、根岸近くで土葬が許される寺を探したらここになった。だが正岡家は曹洞宗なのにたいし、大龍寺が律宗(真言律宗)の寺であることに母八重は反対で、子規はそういうことにこだわらない人だったと母親を説得したのが鳴雪(内藤)だったという。(★)

子規の墓前になぜか栗が一つ置かれていた

結局、「そういうことにこだわらない」で母八重、妹律も子規とともに同じ寺の墓に入ることにしたようで、いまは墓石が仲良く並んで立っている。わが義父もきっと「そういうことにこだわらない」人だろうということで曹洞宗の清水の寺に分骨し、キリスト教の洗礼を受けた義母も妻も「そういうことにこだわらない」で、いつかは曹洞宗の墓に入るという。

「そういうことにこだわらない」人がいる一方で、安岡章太郎や、田所康雄(渥美清)や、吉田茂は、人生の終わりに際して洗礼を受けキリスト教に改宗したという。いずれも配偶者がクリスチャンだからで、「そういうことにこだわる」人もやはりいるらしい。

★関川夏央『子規、最後の八年』講談社。これは秀作。


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