自分って何だ(2)

|2013年2月1日| 

 

 夜中に目が覚めて眠れない時のために、iPhone に電子書籍を買って何冊か入れてあり、昨日未明も目が覚めたのでパラパラと読んでいたらこんな事が書かれていた。


 フロイトに言わせれば、私たちは全員程度の差はあれ心を病んでいる。私たちは「自分が何ものであるか」、「自分は何のためにいまここにいるのか」について誰一人確定的な答えを持っていないからである。私たちは自分が生まれる前のことも、死んだあとのことも、そもそも私たちが今生きている地球や太陽系や銀河系が何のために、どんなふうに存在しているのか、まるで知らない。
(中略)
 心を病むというのは、この幼児的な問いに取りつかれてしまうということである。誰も答えられない問いを真っ正直に抱え込んでしまうことである。(内田樹「『おじさん的』思考」より)


 内田先生によれば、大人はこういう答えの出ない問いをそらす手段のひとつとして「哲学する」のだという。天才でもない凡庸な小学生だった自分は「哲学する」ことなどできっこなくて、「人はなぜ死ぬのか、死んだあと自分はどうなるのか」という答えのない問いに、真っ正直に向き合わない方法をお布団の中の実験室で研究した。
 人間の男女が性交することによって子どもを作るということを知ったのは中学一年の時ひとつ年上の従兄に教わってからなので、小学生時代の自分には生殖器というものがまだ存在していなかった。のちに生殖器になる排泄用器官を触ると妙に気持ちが良いことにある日気づき、こんな妙なことをして良いのだろうか、こんなことをしているのは世界中で自分一人なのではないか、などと激しい自己嫌悪に襲われたものだった。


 男女の性行為など夢想できないのはもちろんのこと、初恋を体験する前なので原石のような快感を弄んでいたわけだけれど、不思議なことにその快感を感じる性器弄りをしながら同時に「人はなぜ死ぬのか、死んだあと自分はどうなるのか」という悲壮な問いを心の中に想起することができないという現象に気づいた。
 どうしてだろう、不思議だなぁと思いながら、夜更けに答えのでない大問題に囚われそうになると、指先だけで作れる不思議な快感を上手に利用して、答えのない問いをそらしていたのだった。「快感の不思議」というものとの出会いだ。


 禅の公案はその技法の代表的なものである。「父母未生以前の我」(両親が生まれる前の私とは誰であるか?)というような公案はまさに「答えのない問い」である。この種の問いはそもそも答えを出すことを要求していない。公案のねらいは「答えのない問い」にはどう対処すべきかという知のエクササイズにあり、おもに問いを所期の枠組みとは違う枠組みへと「ずらす」技法の習得にある。(内田樹「『おじさん的』思考」より)


 快感は人が枠組みをずらしながら破滅を避けて生き延びて行くための道具のひとつであり、幼児の性器弄りは哲学などという頭の方とは別の、きわめて体育会系的なエクササイズなのだろう。リビドーなんて言葉を知るはるか以前、小学生お布団の中研究所の研究成果である。

 

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