【東南海地震と蚊取り線香】

【東南海地震と蚊取り線香】
 

 話し好きな年寄りというのは、呆けてくると同じ話しを何度も何度も話し、同じ箇所に来ると何度も何度も脱線するということを繰り返している。
 1996(平成8)年に97歳で他界した祖母は、楽しい話しというと、夫と二人毎年ひとつの県を選んで旅したこと、悲しい話しというと戦争中の苦労を、思い出話として何度も何度も語ってくれた。

 

静岡県清水。まだ「すしの一二三(ひふみ)」のある魚町稲荷前と
架け替え工事完了間近の稚児橋。
(2001年8月)

 戦争中という物資の乏しい時代、子だくさんの貧乏暮らしに追い打ちをかけるように巨大地震が襲ってきて、郷里静岡県清水でも大変な被害が出たという。おそらく三重県、愛知県、静岡県を中心に1223名の死者・行方不明者を出した東南海地震のことで、清水でも震度5くらいの揺れを感じたらしい。
 家の倒壊と余震が怖いので近所の竹林に行って避難生活をし、当時14歳だった母も覚えているという。そこから先が怪しいのだけれど
「竹林の中にいると蚊にくわれるもんで、子どもらのために蚊取り線香を買って焚いてやりだいけえが、蚊取り線香を買う、その十銭の金が尊いだ…」
という話に必ずなった。竹林での避難生活で、子どもたちが蚊にくわれないよう蚊取り線香を買って焚いてやりたいのだけれど、それを買う十銭が惜しくて買えず、それほど貧しかったという苦労話だった。戦争中の十銭はジャムパンが一個買えるくらいの値段だったという。



静岡県清水。「すしの一二三(ひふみ)」のある魚町稲荷前。
(2001年8月)

 おかしいな、と思うのは東南海地震が起こったのは1944(昭和19)年12月7日のことであり、いかに温暖な清水とはいえ、12月の竹林に蚊がいたのだろうか、蚊取り線香を買うにも苦労した思い出が、いつの間にか地震で避難した竹林の思い出とくっついてしまったのではないかと思うのだけれど、今となってはもう真相はわからない。

 

コメント ( 5 ) | Trackback ( )
« ▼Golden October 【庵原屋と式... »
 
コメント
 
 
 
ジグザグ道路 (サッカーおやじ)
2009-10-23 23:44:30
すしの一二三の旦那さんには、
小学校の頃、目の前のお稲荷さんで、
ソフトボールをよく教えてもらいました。
近所の子どもが集まってワイワイ遊んでいた、
いい時代でしたね。

清水銀座からお稲荷さんに向かう道は、
江尻小学校前を経由して中電の交差点まで、
ジグザグのきれいな歩道が整備されたのですが、
車ではとても運転しにくい道になってしまいました。
スピードが出せなくていいんどろうけどね。
 
 
 
東南海地震 (薬局の末息子)
2009-10-24 10:06:07
 東南海地震の時、母は静岡の松坂屋で真空管を作っていたそうです。勤労動員。
 同じ時、伯母(父の兄の配偶者)は、こちらもおそらくは勤労動員で県庁にいた、と。
 どちらも、鉄筋コンクリートだから安心していたらしい。そういえば、伯母は巴町までどうやって帰ったんだろう(母は土太夫町だから、歩いて帰ったわけですが)


 辻真先さんの「急行エトロフ殺人事件」(講談社ノベルス)では、東南海地震が重要な場面となっています。新装判のあとがきに曰く
「東南海大地震はまぎれもない史実ですが、知る人のきわめて少ないマグニチュード8級の巨大地震です。入社したNHK同輩の誰もあの地震を知らないのに仰天しました。敗戦時の重光外相によれば、日本敗北の原因のひとつとなった天災だったのに。名古屋南部の航空機工場が壊滅的打撃を受けても、マスコミはついに書きませんでした。国に都合の悪い情報は漏らさない、情報がなければ事実もなかったことになる、という歴史の心理を知りました。半島の某国の情報封鎖を、誰が笑えますか。もちろん地震波は国境に関係なく伝わるため、アメリカは瞬時に新装を悟ったそうです。当時のニューヨークで大きく報道された内容を、戦後になっても東京の人が知らなかったというのは……。癪にさわって本作で書き立てたら、「だって小説だろ」とやられました。

 
 
 
すしの一二三 ()
2009-10-24 11:52:36
サッカーおやじ様
新聞社勤めの友人に、すしの一二三さんは技能コンテストで優勝されたと聞いて一度行ってみたいと思っていたのですがとうとう行けず終いでした。残念。

薬局の末息子様
次郎長通りあたりではずいぶん倒壊家屋が出たと祖母が話していた気がします。歴史上の記録はご指摘の事情できれいさっぱり本当に少ないですが、いよいよ記憶の中の記録も心細くなってきましたよね。
 
 
 
地震の話は (mcberry)
2009-10-25 07:16:27
「麦の会」の代表がちょうどそのとき浜松にいたそうで、3日間外で暮らしたと言ってました。
前に仕事で地震の聞き込み調査をしたときには、少し山のほうに行くとほとんど影響はなかったようです(対象が天竜より北だったので)。

この「一二三」のあたりは、祖父が梅陰寺のアパートに住む前にいたところですので、自分の記憶にはないのですが写真が結構残っています。

後には、銀座からの帰り道でした。

123寿司は回転寿司にもめったに行かないので
食べたことがないです。
秋田時代は定食を食べるよりも寿司のほうが安い店が結構あったので、酒のつまみに寿司をよく食べていたのですが、関東から西はそういう店はないですね。秋田のすし屋は酒も居酒屋よりも安かったし。
 
 
 
一二三界隈 ()
2009-10-25 13:46:57
浜松は清水より震源に近いですから激しい揺れを体験されたことでしょう。地震の後、竹林に避難して暮らしたという祖母の話は、当時としては珍しい話しでもなかったのですね。

一二三寿司界隈は記憶が曖昧で、母が一二三寿司はかつて清水銀座にあった…と話していたのが気になって古い住宅地図を見ていますが確かめられません。ただ薬局の末息子さんとサッカーおやじさんが話していた稚児橋近くの書店が弘文堂書店であること、右隣が柳屋化粧品店、向かいが甘静舎で甘静舎右隣が宇佐見八百屋だったのは思い出しましたが、甘静舎左隣が銀座パチンコだったというのは完全に記憶から欠落しています。僕が8歳くらいの頃のことです。

お祖父さまの世代で一二三界隈の写真が残っているというのは珍しいですね。季刊清水の取材で入江の黒田呉服店に写真を見せていただきに行きましたが「もう戦後ではない」と経済白書で宣言された頃の写真までしか遡れませんでした。
 
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。