【怪しさ礼賛】

【怪しさ礼賛】

街の中で「怪しい物」を見つけると嬉しい。それは幼い頃から変わらない喜びである。
街の「怪しい物」とは、おとなたちの仕事や道楽や生活のアカが吹きだまりとなったものであり、かならず何らかのよんどころない事情が隠されていて、想像を働かせながらこっそりあばいて読みとることが子どもにとっては楽しいのだ。実はおとなになってもかなり楽しい。
 
「怪しい物」がぜんぜんない街はつまらない。健全な「怪しい物」は子どもたちの情操を育み、おとなたちをひと回りもふた回りも大きく見せ、地域に十倍も百倍も深みを与えてくれるわけで、その「怪しい物」は住民一人ひとりが創出するものでありながら地域全体の宝でもある。

『道(みち)』を歩くより『径(みち)』を歩いた方が断然怪しい物に出会えそうな気がするのは、単に『径』と『怪』の字が似ているからにすぎないけれど、それでも表通りより裏通りの方が楽しいのは確かである。

近所の小径(こみち)を自転車で通りかかったら道端の光景がプンプンと臭うように怪しい。
等身大で作り物の人体が暗がりに立っているというだけでドキッとするのだけれど、よくある出来損ないのブロンズ像ではなく、木彫であるのが相当に怪しいのだ。


Data:SONY Cyber-shot DSC-S85

芸大も近いし、木彫を志す市井の人がいてもおかしくはない土地柄だとは思うのだけれど、背中に背負った背負子(しょいこ)と薪と縄紐が彫刻ではなく本物であるのが極端に怪しい。ブロンズ像を作ろうとして人体は作ったものの、衣服の襞などの表現が難しいので本物の服を着せちゃった、と同じくらいの違和感がある。

というわけでこれは芸術作品を作ろうとしたものではなく、かなり意図を持った説明的な人体像であるように思えるのだ。

意図的で説明的な像、で思い出すのは二宮金次郎像なのだけれど、貧しい暮らしを強いられ薪を背負って働きながらも学業に励む少年だったからこそ金次郎像はありがたい。けれど、この金次郎は老けすぎていてほとんど尊徳に近い。金次郎は、少年には酷なほど重そうな薪を背負っていたはずだけれど、この尊徳はこの体つきならもっと背負えるのに、適当な重さを背負うことで楽をしている。どうにもひたむきさが感じられない。

持ち主すらこの像にさほどの芸術的価値を認めていないらしく、頭に『弥彦山』などと書かれた菅傘(すげがさ)をかぶせたりして、あまり大事にしていないどころか、半ば茶化しつつ呆れ、どちらかというと置き場所にも困っているのかもしれない。


Data:SONY Cyber-shot DSC-S85

帰宅後に写真を子細に眺めると、うしろに意味もなく巨大算盤(そろばん)があったりし、大きな煙突のあるご商売でもあるので、なんとなく「怪しい物」の謎解きはできる。頭の体操が社会勉強を兼ねるという意味でも、「怪しい物」は地域にとって今も昔も変わらない大切なものである。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 4 月 22 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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