電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
【貝をうめる】
文京区本駒込3丁目。
都立駒込病院敷地は標高 20 メートルほどの台地になっており、昭和 49 年の工事中に縄文時代中期の貝塚と住居跡が発見され、『動坂遺跡』として東京都指定史跡になっている。説明板のそばに貝塚を顕彰した石造モニュメントがあるのだけれど、正面がガラス張りで貝塚を含む地層の断面見本が納められたユニークなものになっている。
これを見るたびに、「生」と「死」と「時」の、深遠な畏(おそ)れを覗き込むようで、なんとも不思議な感慨がある。新美南吉に『花をうめる』という作品があり、この貝塚記念碑を見るたびに慄(おのの)きながら思い出す。
DATA: SONY Cyber-shot DSC-W1
その遊びというのは、ふたりいればできる。ひとりがかくれんぼのおにのように眼(め)をつむって待っている。そのあいだに他のひとりが道ばたや畑にさいているさまざまな花をむしってくる。そして地べたに茶飲茶碗(ちゃのみちゃわん)ほどの――いやもっと小さい、さかずきほどの穴(あな)をほりその中にとってきた花をいい按配(あんばい)に入れる。それから穴(あな)に硝子(がらす)の破片(はへん)でふたをし、上に砂(すな)をかむせ地面の他の部分とすこしもかわらないようにみせかける。
「ようしか」とおにが催促(さいそく)する、「もうようし」と合図(あいず)する。するとおにが眼(め)をあけてきてそのあたりをきょろきょろとさがしまわり、ここぞと思うところを指先でなでて、花のかくされた穴(あな)をみつけるのである。それだけのことである。
だがその遊びに私たちが持った興味(きょうみ)は他の遊びとはちがう。おににかくしおおせて、おにを負かしてしまうということや、おにの方では、早くみつけて早くおにをやめるということなどにはたいして興味(きょうみ)はなかった。もっぱら興味(きょうみ)の中心はかくされた土中の一握(ひとにぎり)の花の美しさにつながっていた。
砂(すな)の上にそっとはわせてゆく指先にこつんとかたいものがあたるとそこに硝子(がらす)がある。硝子(がらす)の上の砂(すな)をのける。だがほんのすこし。ちょうど人さし指の頭のあたる部分だけ。穴(あな)からのぞく。そこには私たちのこのみなれた世界とは全然別の、どこかはるかなくにの、おとぎばなしか夢(ゆめ)のような情趣(じょうしゅ)を持った小さな別天地(べってんち)があった。小さな小さな別天地(べってんち)。ところがみているとただ小さいだけではなかった。無辺際(むへんさい)に大きな世界がそこに凝縮(ぎょうしゅく)されている小ささであった。そのゆえにその指さきの世界は私たちをひきつけてやまなかったのである。(新美南吉『花をうめる』より)
そんな情趣をもって眺めるとき、このモニュメントは病院前に相応しいかもしれないなと思う。
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