◉「わたし」と内部と外部

2018年4月11日
僕の寄り道――◉「わたし」と内部と外部

昨日まで読んでいた本の続編を読みかけて思う。Autism(自閉症)という言葉の幹には Autos という言葉があって自我だという。Autism という呼び方をされる人には自己同一化の希求があるという。

その本の著者もそうで、心の中にまったく性格の違う「わたし」がふたりいて「ほんとうのわたし」(内部)が直面するこころの危機に、「わたし」(外部)がつける仮面となって「わたし」(内部)を守ってくれていた。そのことの個人史を綴ったものだった。

ほぼ読み終えかけて最後の「終わりに」と「エピローグ」にさしかかったら読書の捗(はか)が行かなくなった。書き手がそれ以前と別人に思えたからだ。

「終わりに」と「エピローグ」以前の著者と「それ」以降の著者との違いは、本人も言っている通り、二つの仮面を演じていた内部の「わたし」たちが消え、ただひとりの「わたし」になれたことなのだ。それこそ彼女が希求した世間並みで定型な「わたし」なのだ。そういう「わたし」が「終わりに」と「エピローグ」でまとめをしている。

そういういくつもの仮面の統一を成し得た著者が「終わりに」と「エピローグ」を語り始めたとき、この著者は油断ならないぞという身構えが読んでいる側の自分に生じたのだ。だから今までのように読み進められなくなった。「用心しろよ、このドナはいままでのドナじゃないぞ」と。彼女はかつて自分が恐れつつ希求した「世間的な定型の側」に立つことで、他人を恐れさせる「内面が読めない人たち」の側に立ったとも言えるのだ。

ふと振り向くと、食堂の窓ガラスの向こうから、何人かの先生たちがこちらを見ていた。あら、とわたしは思った。あら、今ではあの人たち(あの人たちに傍点)、ガラスの向こう側ガラスの向こう側に傍点)にいる。(ドナ・ウィリアムズ『自閉症だったわたしへ』より)

ふと思うところがあったので続編の読書を中断し、小児科医平岩幹男が自閉症について書いた本を読み始めた。

   ***

忘れないようにメモしておくと、終わりから始まりへと人生を逆に生きなければならなかったあの作家も、思索に引きこもって内部の「わたし」と外部の「わたし」について深く探求を続けたあの評論家も、大ざっぱに言えば「自閉症スペクトラム」の上にいたのではないか、だから自分は彼らが妙に好きなのではないかと思えてきた。(2018/04/11)


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