森中定治ブログ「次世代に贈る社会」

人間のこと,社会のこと,未来のこと,いろいろと考えたことを書きます

アイン・ランド『水源』書評

2018-06-17 19:00:19 | 社会問題

私の半生をかけた論考『種問題とパラダイムシフト』が完成し、4月7日(土)東京大学中島ホールで行った市民シンポジウム「次世代にどのような社会を贈るのか?」の今年のテーマとして議論しました。私は昆虫(チョウ)を材料とした分子系統学が専門で、そこから種問題や生命論に広がりました。人間とは何かと言った哲学や人間が織りなす社会問題、人類の未来などには以前から深い興味を持っていたので、私が考えたことを核としてそれら総てを統合した論考となりました。言わば、私がこの世に生を受けた目的とも言える作品です。

その論考は、個体と種の関係について考察したものです。それを社会に当てはめればリバタリアニズムとマルキシズム(コミュニズム)の関係とも言えるかと思います。私はリバタリアニズムに関する本は読みましたが、リバタリアニズムの専門家ではありませんので、その内容についてはリバタリアニズムの権威である森村進先生(一橋大学)に目を通していただきました。

この論考にある人から、あなたはリバタリアニズムについてあれこれ述べているが、リバタリアニズムの原点とも言えるアイン・ランドの『水源』についてどう考えますか?という質問をいただきました。読んでいなかったので曖昧な返事をしました。その方はフェイスブックで自分の母親を毒親などと言っているので『蕁麻の家』3部作を読んだことがありますか、読むと母に対する考えが変わるんじゃないんですかと私も彼に言いました。その後読まれたかどうか知りません。

そのような事情で、5月からこの『水源』を地元の戸塚図書館で借りて読み始めました。1000ページを超える大作です。1回の貸し出し期間が2週間、3回借り直しました。もう1回は必要と思いましたが、最後の方で面白くなって一気に進み3回で読み終えました。

主人公のハワード・ロークは建築物の設計者で、設計図を描くことつまり構想を産み出すことが仕事です。時は1920−30年頃、物語は1922年にロークが大学を退学になったところから始まっているので世界恐慌直前の嵐の前の静けさの米国が舞台です。この小説は、1998年の「20世紀の小説ベスト100」で第二位になっています。著者ランドの小説(思想)は米国の知識層に熱狂的に受け入れられ、その中には連邦準備理事会(FRB)のグリーンスパンなどもいます。米国の学生や知識層の常識のようです。しかし7年がかりで書かれたこの小説は、12の出版社に拒絶され1943年に出版されましたがすぐ絶版となったようです。当時の米国上流社会がどのようなものであったか想像されます。

私の率直な感想は、非常に素晴らしい小説だということです。総てではないにしても、人間の真実を抉り出しています。この小説の舞台となった米国の上流社会、米国には貴族はいませんから財をなした人たちが形成する階層、そこを支配する通念、キリスト教の影響もあるのでしょうが、それは「利他」です。他人に施す恵み、どれほど他人に施したか。利他性こそが人間の美徳であり、最上の人間の証であるとの通念に支配されています。逆に「利己性」は忌むべき性質です。自己中心的な人間であるとの評価は社会から抹殺されるに等しい。

人間は利己性を持っています。修行を積んでそれを穏やかに自己抑制(縮小)する力をもつことは可能かもしれませんが、それを消し去ることはできないと思います。米国でそんな修行がなされたとは聞いたことがありません。だから誰もが抑制されてはいない利己性を持ちながら、表面は利他性を尊ぶ人間関係が出来上がります。これは偽善そのものです。〇〇夫人はあのチャリティーで○万ドルを惜しげもなく寄付したとか、人道主義それが人間の格、存在意義を決める基準になります。他人は自分をどう見ているか、それこそが自分の価値の基準になります。

著者のアイン・ランドは、このような人間社会のあり方に疑義を呈しました。単に疑義を呈しただけでなく、非常に重要な人間社会の本質に関わる指摘をしました。

同じ建築学部の友人であるキーティングとローク、キーティングは誰とも仲良く、教授の覚えもめでたく、学生自治会の会長であり、アメリカ建築家協会から金賞を受け卒業式に集った総ての羨望の眼差しを受けるのに対し、ロークは自分の考えをひけらかしもせず他人の考えに同調もしません。そして学部長に受け入れられる返事をせず、その同じ朝に大学を退学になります。
それからもずっと二人の関係は続いていきます。キーティングは社会から称賛を受ける陽のあたるところを歩き、一方ロークは陰の部分を歩きますが、途中で逆転します。ドミニクという女性も独特であり、彼女を挟んだ二人の関係もまた独特であり、私自身もこれが米国社会の実態なのか?!と驚くくらい、深い面白さを持つ小説です。

キーティングは、政府の貧困者対策のための廉価な住宅、単位あたり○ドルの住宅設計にチャレンジします。しかし自分の力ではどうあってもそれを設計することができません。最後に彼はロークを訪れその設計を頼みます。ロークはキーティングの気持ちを分かっていて、彼が設計したことにしてまた一切の名誉も金もキーティングのものとして設計します。キーティングは設計料の全額をロークに渡すよと申し出ます。ロークは金が欲しくないことはわかっているだろうとキーティングに言葉を返します。ロークの条件はただ一つ、その建物がそのまま世に出ることつまりこの世に生み出されることです。そして二人は契約を結びます。キーティングはその設計図によって社会の称賛を受け、建築を始めたものの政府などの要望によって、建築を一部改変せざるを得なくなります。建築の途中でロークが見たものは約束を違えているものでした。ロークは夜間にそれをダイナマイトで爆破します。

ロークは社会から指弾を受けます。二人は学生時代からの知り合いだというじゃないか。ロークのやっかみか。貧困者を救う崇高な行為になんという自己中心的な男だ!擁護者の新聞社社主も含め社会から抹殺されようとします。しかし、ロークとキーティングの契約が表に出て、裁判の陪審員の前でロークは陳述します。

「人間の格は利他性で決まる。どれほど他人に与えたか、それで人間の格が決まる。それが今の社会です。しかしもっと大事なことがあります。それを忘れています。与えるものを生み出すことです。生み出されていなければ与えることはできません。つまり創造者です。創造者は自分の仕事のために生きます。創造するとき他人を必要としません。人間の精神は他人ではありません。自分自身しかありません・・」ロークはプロメテウスの話をします。「プロメテウスは罰を受け、ハゲワシに腹を裂かれました。なぜか。神から火を盗み人間に与えたからです・・」こうして、ロークは無罪を勝ち取ります。

「利他性」という名の下に偽善が支配し他人の評価によって自分の価値が決まる社会も、アイン・ランドが同意し望んだリバタリアニズムが変形特化して新自由主義の形で現れた現代の米国社会も、どちらも人間が目指す真の社会とは私には思えません。

分け与えることができるもの、それは生産物です。それはとても重要です。生産物がなければ人間は与えることが出来ません。自然を切り出し、加工することつまり労働によって生産物が生まれる。マルクスと重なります。しかし、マルクスが言っていないこと、見落としたか無視したか、それがここで主張されます。生産物を初めてこの世に生み出したその価値です。アイン・ランドはこの小説を水源(The fountainhead)と名付けました。人間の労働によって生産が始まりますが、生産の始まる一番最初、発起点です。日本語では「開闢」と言ってもいいかと思います。社会主義者は労働価値については述べるけれども、創意や生み出した価値を議論しません。無視しているようにすら思えます。それを無視することは美しい理念に目を奪われ人間の心を見過ごすことであり、利他という名の下に偽善の社会を作ることだと私は思います。偽善を美しい人道主義として人間に強要すればどういうことになるでしょうか。本音と建前が入り混じり融通が効かず柔軟性のない暗闇の社会になると、私は思います。

アイン・ランドはロークに自分の主張を語らせます。創造は個人の業であり、個人の意志こそが大事だと言います。しかし、それを総てお金に換算して独り占めせよとは言っていません。ロークは設計はお金のためだ、お金が欲しいとは一言も言わないのです。ランドは素朴な公正感しかもっていません。大金持ちを産み出し想像すらできないような貧富の格差を産み出す現代のグローバリズムとアイン・ランドのリバタリアニズムは合致してはいません。人類の未来を考えるに当たって、リバタリアニズムとマルキシズムが心を開いて議論をするべき時が来ていると私は思います。

論考『種問題とパラダイムシフト』は、まさにその議論そのもの。個体と種、リバタリアニズムとマルキシズム(コミュニズム)、その両方を重ね持ったもの、それが人間です。その証明を試みています。

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