森中定治ブログ「次世代に贈る社会」

人間のこと,社会のこと,未来のこと,いろいろと考えたことを書きます

残された人生

2019-11-21 21:37:16 | 声楽

2019年11月16日、日本技術士会の愛知県支部で講演依頼をいただき約1時間の講演をした。依頼の内容は“プルトニウムと原子炉”についてであった。しかし私は生物学者であり、かつ単にその専門家ということではなく私自身の研究が現代人類に大きな意味を持つので、その話を前半にさせて欲しいと申し出た。

その結果、 講演の演題は「現代人類における熔融塩炉の意義」であったが、1.現代人類が迎えた情勢(偏った潮流) 2.生物学研究(種問題、人間の実在の形) 3.熔融塩炉の意味(福島、プルトニウム、専焼炉と原子炉の用途)という配分で話をさせていただいた。

東洋熱帯からオーストラリア、ニューギニアにかけて広く生息するカザリシロチョウを材料にした分子系統学研究と、その翅の鮮やかで多様な色彩が自然界でどのような意味を持つのか、それを見つけることが私の主たる研究テーマであった。2017年にカザリシロチョウの分子系統地理学の論文が英国のリンネ学会の雑誌に掲載され、2018年にカザリシロチョウの毒性と擬態(外敵に対する色彩の効果)についての論文が日本昆虫学会の雑誌に掲載され、今年2019年は毒性に関する続報が日本生物地理学会の英文誌Biogeographyに掲載された。カザリシロチョウの艶やかな色彩と著しい多様な模様が持つ意味について、最後の論文を来年に書く。こうして私の人生における生物学研究は概ね幕が閉じる。私の生涯にやりたいことの一つが終わる。

その生物学研究の過程で、種問題にぶつかった。生物の種とは何か?これは、生物学者が長年にわたって深く考察し研究し、侃侃諤諤の議論をしても答えの出ない超難問である。生物学者ではないこのブログの読者は、生物の種とは例えば“犬”とか“猫”と聞けば、それは誰にもわかる現実にあるものだ。当たり前のことだ。いったいそれのどこが超難問なのかと不思議に思うだろう。では、犬という種がこの世にあるなら、どういう形なのかと問われるとその途端に答えに窮する。犬のそれぞれの個体のことではない。犬という“種”そのものが個体なのかという問いである。

“種”などはない。この自然界に実在する唯一の生物はそれぞれの個体である。人で言えば個々の個人である。個体だけが現実に存在する。そのそれぞれの個体を構成員として人間が意図的に束ねた(グループ化した)ものが種であって、種は単なる人間の作為的な集合(クループ)である。この考え方を、唯名論という。個体以外の総てが名前だけだという意味である。生物の分類には種の他にも“属”や“科”やその他たくさんの階層に分かれているが、それらは総て人間が考え出した空想の産物、人間の頭に中だけにある観念である。この考え方、唯名論は中世の時代から知られ、現在まで続いている。こう言われてみると、なるほどそうかとも思える。

ある人が“規約種”という概念を出し、その分かり易い事例として“1グラム種”を提示した。重さが1gであるものは総て含まれる。それだけがこの種に属するための規約である。誰が考えてもわかるが、これこそまさに人間が恣意的に束ねたグルーピングである。“1グラム種”というものがこの世に実在しないことは直感的にわかるし、無論それは個体でもないし、形もない。この“1グラム種”と“犬”や“猫”という生物種とは同じ空想上の産物、人間の頭の中だけの観念だろうか?そう問われると、“1グラム種”は明らかに人間が作ったものだが、“犬”や“猫”はそうではないだろうと、これも直感的にわかる。

この唯名論に対して、1950年代から1970年代に複数の学者が、生物は種こそが一つの実体であり個体であり、個々の個体はグループを構成する構成員(メンバー)ではなく、種という一つの個体の部分(パート)であるという“種の個体説”を打ち出した。“種の個体説”は、個々の個体こそが唯一の実在する構成員であって、種は単なる観念(グルーピング)であるという唯名論と真っ向対立し、どちらが正しいか生物学者の長年にわたる議論でも決着がつかないのである。

私は、この種問題について、チョウを材料とした純粋生物学研究とともにずっと考え続けてきた。そして“実在する”とは人間が実感することであることを見出した。生物学的視点からの実在論である。

自分自身がこの世に実在することを疑う人は、ほとんど誰もいないだろう。「我思う 故に我ある」とデカルトは言った。人間は、自分自身を認識するつまり知覚することで実在する実感を持つ。さらにもう一つある。知覚できないものでも、理性によってつまり論理によって実在を認識できるものもある。例えば原子。人間は原子を見ることはできない。五感で知覚できない。しかしすべての物質の構成因子である。原子がなければこの世の全ての物質はない。原子がこの世に実在することを疑う人はほとんどいないだろう。このように、人間は知覚と理性によって実在しているという実感を持つのである。

私は、個々の個体もこの世に実在し、同時にまた種も実在することを見出した。私は、このどちらかではなく、両者が実在することを見出した。そして両者が実在するというこの理解こそが、現代人類が今まさに直面している危機を乗り越えるために、もっとも必要なものの一つだと思う。

1.      人間はなぜ対立するのか?

2.      その対立はいつまで続くのか?

3.      その対立を解消する方法はあるのか?

この3つの問題が、種問題への理解から解けるのである。

これが、私の生涯に与えられたなすべき仕事である。純粋な生物学研究はまもなく終わるが、この仕事はもっと長く続くだろう。

こういった話とは全く別に、私は歌(声楽)をやっている。生活費を稼ぐための仕事からリタイアしたその2年後から始め、およそ8年が経過した。2019年10月14日にウィーン・オペレッタコンクールが開催され、その愛好家シニア部門で1位をいただいた。2020年1月19日には東京オペラシティで受賞者コンサートがあり、それに出演する(チラシのリンクFBを添付します。興味のある方は是非おいでください)。8年間やってやっと片目が開いた。2019年12月4日には日本クラシック音楽コンクールの声楽部門全国大会があり、それに出る。まだ伸び代があり伸びるうちはやる。とても楽しいが、伸びが止まったらきっと熱が冷めるだろう。

 

https://teamroom.jp/team/661/album/578

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=2476602605947137&set=pcb.2701261333269616&type=3&theater

https://www.facebook.com/sadaharu.morinaka.3?__tn__=%2Cd*F*F-R&eid=ARAN3SCiZI30NF1K3hgrldYI13rkAOSQelxFS3MjArc7F2satC2DMLofoayV2qp7mrFB20iC7l50wgNT&tn-str=*F

先般、放送大学埼玉学習センターで「日本歌曲の魅力と発声法1」を受講した。埼玉県のバリトン歌手、福井克明先生が歌い方を教えてくださった。日本歌曲「くちなし」を初めて歌った。

 “熟しても、口を開かぬくちなしの実だ・・”

あれもしたい、これもしたい、ああなりたい、こうなりたいと一所懸命努力し、恋い焦がれても口を開かぬ、つまり成就しない。

それこそが人間の“生”である。こういう意味を持つ歌である。

生涯においてやれるだけやれば、その結果がどうであっても、たとえ不首尾に終わっても清々しい気持ちでこの世を去ることができるだろう。

私もあと残された時間、やれるだけやってみたい。

 

コメント   この記事についてブログを書く
« 日本のトランプ N国党首・立... | トップ | オペレッタを歌う »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

声楽」カテゴリの最新記事