森中定治ブログ「次世代に贈る社会」

人間のこと,社会のこと,未来のこと,いろいろと考えたことを書きます

平和憲法について考える

2018-05-03 09:58:37 | 原発・エネルギー

生物学に端を発して、人間のこれからの生き様について後世の人類に残したい私の生涯をかけた論考を出版しました。養老孟司先生をはじめとする何人かの先生にお出でいただき、その論考の骨子に関わる市民シンポジウムも終えました。

私の人生における一つの節目を通過し、一息ついたところです。その市民シンポジウムのおかげで人間社会のお金の問題、つまり経済学についての興味深い論点を見出しました。今後の私の大きい興味が一つ広がりました。カザリシロチョウを用いた生物学の論文も学術誌掲載の直前まできています。

併せて歌です。声楽(テノール)を習ってはや6年、昨年は直前に風邪をひいたり総じて不甲斐ない成績でした。先般、和光市のサンアゼリアホールに知人の歌を聴きに行ったところ、「清水かつら記念日本歌曲コンクール」があることを知りました。清水かつらさんは「叱られて」「靴がなる」「みどりのそよ風」「雀の学校」などの童謡を産んだ詩人で、現在の埼玉県和光市で生涯を送りました。今年は、東京国際声楽コンクール、日本クラシック音楽コンクールに加え、この清水かつら記念日本歌曲コンクールにも出てみようと思います。

さて、前置きが長くなりましたが今日は憲法記念日、現代日本の平和憲法について考えてみたいと思います。

 「世界の国に先駆けて 戦争捨てた憲法の こころは忘れずとりもって 平和の日本の民となる これが我らの将来だ」

「窓に見る 富士の高ねをそのままに よろずの国にさきがけて あらゆる武器をうちすてた 文化日本の国民(くにたみ)と 私たちはなるのです」

共に日本の小学校の校歌です。この言葉に現代平和憲法の原点が尽くされています。

先の戦争では、アジアで3000万人もの人が死に、日本国内では広島・長崎の核兵器投下、東京での無差別空爆などによって300万人もの人が死にました。人が死に人類の生存基盤である自然環境が破壊されるだけでなく、戦争は人間を人から鬼に変えます。戦争は人間のすることではないという魂の叫び、万人の思いが上記の歌詞となり現代の我らの平和憲法となったのです。沖縄問題の権威であるオピニオンリーダーからお聴きした意見です。「先の戦争で沖縄は日本の本土決戦の犠牲になった。一番酷い目にあった。それでも日本に復帰したいと考えたのは、日本が二度と戦争はしない、人殺しはしないと誓い、その具象として目に見える形で平和憲法を作ったからである。二度と戦争はしないという人間の国になったから、その国と一体になりたいと思ったからである。それゆえその平和憲法が人を殺すことのできるものに変えられるなら、沖縄が日本に属する最も重要な論拠を失う」

米国が作ったものだとか、現代の日本国憲法の出自があれこれ問われます。そんなことは問題ではありません。人類がこれから未来に向けてどう生きるのか、どういう世界を作るのか、自分、自国の損得だけを頭においた暴力によるねじりあいの世界を作るのか、平和の中に人類の自然科学的な成長と精神的な成長を合わせた総合文明が見込めるような世界にするのか、その問いの中の一つの要素です。

今回の市民シンポジウムでの大きな論点でしたが、それぞれが切り離された単位である個人、それと理性的なもう一つの単位である一つの人類、生物学からその両者が共に実体であることの論証を試みたのですが、これもその問いの中に位置付けられる一つの要素です。

このような視点から見れば、現代の平和憲法の出自がどうとか、問題にならないことがわかっていただけるでしょう。

最大の問題は「では、攻められたらどうするのか」という論点です。上に述べたように人間の頭脳と予算を国家間の平和の構築と維持のために使います。経済的な繋がり、文化や芸術を通した人間の交流、災害時の相互援助、農業、医療技術などの提供、国際結婚、移住、理性的なものを総合してつながりを強めていきます。万が一戦争騒ぎになれば、それぞれの国に住む人類が反対します。そういう国作りをしていけば戦争を防ぐことができるでしょう。抑止力とは、人を殺す武器の殺傷力を高めて相手を威嚇することではなく、経済的な繋がり、文化や芸術を通した人間の交流、災害時の相互援助、農業、医療技術などの提供、国際結婚、移住、理性的なものの総合が戦争の抑止力ではないでしょうか。

ですから、人間の頭脳と予算を、戦争を抑止するために使うというものです。しかし、最後の質問が残っています。それでも、「戦争が起こった時にどうするか?」という質問には答えていない。その質問をはぐらかしているというわけです。

私がここで、この問いかけに対する答えを書いてもつまらないと思います。なぜなら、この問いはいつまでも残っているからです。みんなが考え自分自身の答えを持つ必要があるからです。それが自分で考えるということです。

あらゆる力、人間の頭脳、努力、お金(経済)の大半をつぎ込んでそれぞれの国に住む人類が強く結ばれる努力をします。どれだけその努力をしても「でも万一、戦争が起こったらどうする?敵が攻めてきたらどうする?」という問いへの答えは出て来ません。

ここで私は、このブログを読んでくださった方に問いかけをしたいと思います。

1地球に月くらいの隕石が落ちてくる場合 2福島の原発震災

1は自然現象です。ほとんど可能性はないでしょうが、だからと言って絶対ないとは断言出来ません。人類が頭脳、お金、持てるあらゆる力を発揮して戦争が起こらないように努力することはできます。しかし、だからと言って敵が攻めてくることは絶対ないとは言い切れません。この1と同じでしょうか。こんな稀な、天が落ちてくるというような心配のために「敵が攻めて来たら云々」という問いを真に受けているのでしょうか。2は、深刻な原発事故は絶対ないと言われそれを前提に福島の軽水炉原発が運転されていました。他の軽水炉原発も同じでしょう。いわゆる5重の防御壁による安全神話です。しかし5重の防衛ラインは破られてしまいました。戦争はどうでしょうか。人間の持てる人智の全て、頭脳もお金もその総てを使って戦争のない状態を維持する。これが福島と同じく5重の防衛ラインであるなら同じように破られるかも知れません。

1と2への思考から、逆に武器を増やし、人殺しの能力、環境破壊力を高めれば、敵は絶対に攻めてこないという結論が出てくるのでしょうか?「でも万一、戦争が起こったらどうする?敵が攻めてきたらどうする?」という問いかけそのものがどういう立場に立とうとも出てくるのではないでしょうか?この問いは結局何なのか、これ以上はご自身で考えてみてくださいね。

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