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敗戦と終戦 (哲野イサク)
2008-05-29 22:31:05
 最近原稿を書くのにつかれるとこのサイトを覗くくせがついて、いかんな、と思っております。しかしいろいろ興味あるテーマを提供してくれるので、つい、ふらふらと・・・。

 そうですか、敗戦が105で、終戦が125ですか。庶民レベルではほぼ拮抗しているということですね。

 以前政府関係のある機関で広報ビデオを作成するので、私が台本を書いたことがあります。そのテーマの歴史に簡単に触れる必要があったので、「敗戦のあとすぐに」という記述が、「終戦の後すぐに」と訂正されて戻ってきました。予想していた通りでした。といのは、政府関係の文書では、「終戦の詔勅」をはじめとして、「敗戦」と表記したしたものは、私が調べた限り一つもなかったからです。

 しかし、こんな広報ビデオまで、丁寧に直してくるとは、意外と神経質なんだ、この問題に関しては、とあらためて認識した次第です。

 「終戦」はなにはともあれ、政府の基本認識です。と同時に、「やれやれ戦争が終わった」という庶民の吐息が聞こえる、という大兄のご指摘も、私には説得力をもって響きます。

 また政府の、「この問題にはこれ以上立ち入るな」という硬い拒否の響きをもった「終戦」という言葉を庶民が、一種の安堵の気持ちをもって使っている、と言うことは、まだあの戦争に対するわれわれの清算が終了していないのだ、という感じを強く抱かせます。

 一方「敗戦」という言葉はどうでしょうか?私は敗戦、使うケースが圧倒的に多いのですが、時折「日本の降伏」とか「無条件降伏」という言葉も、文脈によっては使っています。

 「終戦記念日」の代わりに「降伏記念日」とすると、これは自虐史観、と言うことになるのでしょうか?

 敗戦、終戦、降伏、なにかいずれも、私の中では違和感を、少しずつ持っています。

 日本人全体がみんなで納得できる言葉を持つ必要がありますね。もちろんそこにいたるまでには相当真剣な掘り下げが必要ですが。

 終戦、敗戦を季語とした作品で見るべきものがない、と言う指摘は、結局われわれのあの戦争に対する掘り下げが甘い、ということの一つの反映という気が強くします。

ご迷惑でしょうが、またまた書いてしまいました。
 
 
 
思想的掘り下げ (冬月)
2008-05-30 00:41:52
■哲野さん、いつでも歓迎ですよ。ご返事は遅れることもありますが。

確かに、あの戦争に対する思想的な掘り下げは、課題でしょうね。それをいかに俳句や詩に表現するのかという問題も含めて。

3月10日の東京大空襲を詠んでみたのが次の句です。

東京大空襲
落椿受難絶えざる星の上

被害者という狭いナショナリズムに陥らず、しかも、悲劇を表現し、かつ、連帯の可能性も示すにはどうしたらいいのか。俳句の文法で、これを行うには、まだまだ、試行錯誤が必要です。
 
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