祈りを、うたにこめて

祈りうた(聖句つれづれ  鎖からのほどきー「長血」の女性 全五回の四)

聖句つれづれ 鎖からのほどきー「長血」の女性 全五回の四



そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。
彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。
彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」
(「マルコの福音書」五章、新改訳聖書二〇一七年版) *緑字は、今回の中心となる箇所。

〈要約〉長い間婦人科系の病を患っていた女性だが、「治りたい!」という強い気持ちを保ちつづけてきた。ある日、イエス・キリストの癒やしの力を知った。そしてそれを信じた。勇気を出してイエスに近づいたとき、彼女は信じたとおりに癒やされた。それだけでなく、心の葛藤からも社会的な縛りからも解き放たれた。信仰をもってイエス・キリストにすがる、そのことで救われた、という物語である。



癒やし主へのタッチ

 重い病にかかった人のみんなが宗教にすがるということはないだろう。己を恃(たの)みとする人は(私はそういう人を「自分教」と呼んでいるのだが)、「宗教は弱い者が頼るもの、強い者はすがることなどしない」と思うのではないか。
 ところが、この病の女性は、イエス・キリストにすがったのだ。「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思って。
 彼女には、イエスの良いうわさがたくさん耳に入っていたと思う。―聖書には、この女性の記事の前までに、ツァラアト(重い皮膚病)の人を治したこと、中風の人を癒やしたこと、三十八年間も寝たきりだった病人を起き上がらせたこと、やもめの息子を、なんと生き返らせたこと!、嵐の湖を一声で静めたこと、悪霊につかれた人から悪霊を追い出したことなどなどが書かれている。イエス・キリストが、病を癒やす方、奇跡を起こす方であるというグッドニュース(福音)を、この女性は聞いていたのだと思う。
 人間の医者があてにならないことを思い知らされてきた女性。襲いかかってくるような苦しみの中で、うめきながら、なお生きることを選び続けてきたこの女性。彼女は、「自分教」を信じる己を棄てた。そして、イエス・キリストにすがろうと決意したのだ。
 そして癒やされた。
 「すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた」のである。


 ここでひとつ、誤解しないでおきたいことがある。
 この女性は、イエスの「衣」に触れた。それで病が治った。だが、誤解しないでおきたい、ということは、「衣」に癒やしの力があったわけではない、ということだ。衣はただの布にすぎない。そうではなく、その衣をまとっていたイエス・キリストにこそ癒やしの力があったのである。イエスも、「自分のうちから力が出て行った」、そのことに気づかれたと書かれている。木でつくられた物、石でつくられた物、紙でつくられた物、布でつくられた物などの「物」を重んじすぎると、あたかもそれが霊験あらたかなもの、奇跡を起こせる力が宿っているものであるかのように思ってしまうかもしれない。そうなると、クリスチャンに戒められている「偶像崇拝」に陥ってしまう危険性があるのだ。
 ほんとうは、この女性は、「イエスさま!」と叫び、泣きながらイエスに抱きつきたかったのだろう。「わたしを助けてください、治してください!」と。
 だが、長い間人々からのけ者にされてきた自分である。イエスをぐるりと取り囲んでいる群衆が怖い。なにより自分自身、奇跡を起こす方、スーパーマンのような方の御体に直接触れるなど畏れ多いことではないか。そう思うしかない身である。「うしろからイエスの衣に触れた」だけで精いっぱいだったのだと思う。


 私は三十二歳のとき、イエス・キリストに救われた。
 そのときの私もまた、この女性と同じように行き詰っていた。持病は悪化し、職場でも追い詰められていた。自分を誇るものなどなく、人生の意義さえわからなくなっていた。下へ転がり落ちはしなかったが、がけっぷちをよろけながら歩いていた。だから、己を恃(たの)むなどという状態ではなかったのだ。ここまで落ち込むと、もう理屈も何もない(そもそも理詰めで信仰に入るなどということがあるのだろうか!)、「助けてください!」と、神にすがるほかなかったのだ。
 私は信仰が与えられる前から「神に祈る」ということをしていたが、その祈りの中心は、「もうあなたしか私を救ってくださる方はおられません。あなたにおすがりします。どうか私にあなたが救い主であることを信じさせてください、あなたは生きておられること、そして私に憐れみをかけてくださる方であること、そのことをわからせてください」というものだった。むさぼるように聖書を読みながら、日に何度も何度もお祈りした。そしてある日、私にとっての決定的な御言葉が示され、「イエス・キリストこそ自分の主である」と信じたのである。
 イエス・キリストは、この女性にとってと同様、私の「命の恩人」なのである。



★祈り求めるものはすべて得たと信じなさい。その通りになる。(聖書)
★いつも読んでくださり、ほんとうにありがとうございます。

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