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1945年2月13日、ブタペストついに陥落

2020-02-15 03:21:01 | WW1&2

2日ほど遅れてしまったけど、1945年2月13日はハンガリーの首都ブタペストでドイツ軍がソビエト軍に負けた日。

日付からわかるようにもう、最後の最後のドンづまりで、ナチスドイツの同盟国だったハンガリーで戦った戦い。一般にブタペスト包囲戦などと呼ばれる。

wiki ブタペスト包囲戦

 

この戦いは、あまり有名でないような気がするんだけど、ソビエトの東部戦線の戦いではスターリングラードに次ぐ長さと激戦と言われたりもするし、実際ソ連の犠牲者も多い。

どうしてそうなるのかというと、そりゃもう、こういう位置関係だからというしかないでしょう。当時はウクライナまでがソ連。オーストリアがドイツだったわけで、まさにその中間がハンガリー。

ハンガリーはスターリングラード、オデッサなどソ連南部を攻撃しに行っているドイツ軍の重要な同盟者なので、要するにそこはソ連への進入路としてドイツが仕切ってる場。その上ここは工業があって、さらに石油があるのでドイツにとっては重要な場所。

ということでソ連は明らかに敵地に入っていった。

 

この戦いは戦いの厳しさも問題だけど、それ以上に戦いになるまでが酷い。

戦わないでいいなら戦う必要もなかったのに戦って、ブタペストはボロボロになったと言えるだろうと私は考えますね。

というのは、スターリングラードでのドイツ軍敗戦後、1943年、44年とドイツは勝てないし、自分のところの兵隊も相当死んでるし、戦線は明らかに自分のところに近づくし、となったところでハンガリー首脳は、連合国と休戦しようとした。1944年初頭にはその気になっていた。

しかし、そこでドイツがクーデターをしかけて、要するにハンガリーを占領しちゃった。マルガレーテ作戦

しかも、これまでの通常の政権ではなくて、ハンガリーにおけるナチ党の矢十字党が政権を掌握する。

その後、さらに状況はハンガリーにとって深刻になる。ソ連は先にルーマニアを制して、ルーマニア軍が今度はソ連軍にくっついて一緒にハンガリーに入ることになる。

ここでもハンガリー首脳、とりわけホルティという重要人物が和平工作を行う。1944年9月から10月。遠いイギリスになんか言うってんじゃなくて、ソ連とやってるから本気。

ソ連も応じて、10月15日ハンガリー首脳らは苦心惨憺のうちに休戦協定をラジオ放送で流すところまでやった。

ホルティはその中で、「ドイツが戦争に負けたことは今日明らかである」「ハンガリーはしたがってロシアと仮の休戦協定を結んだ」という、ある意味ちゃんとした認識を示していた。

On 15 October 1944, Horthy told his government ministers that Hungary had signed an armistice with the Soviet Union. He said, "It is clear today that Germany has lost the war... Hungary has accordingly concluded a preliminary armistice with Russia, and will cease all hostilities against her.

当然、反独だった人たちを中心に安心して人々が通りに出るところまでいった。

また、ホルティはハンガリー軍の司令部にソ連軍と連携することまで命令していた。

しかし、ホルティが軟禁され、ホルティの宣言は無効だという放送をハンガリー軍の参謀本部が行うという急転直下の事態となり、矢十字党のサーラシが新政府を組織し、ハンガリーとドイツは10月から2月まで徹底抗戦するという恰好となった。

パンツァーファウスト作戦

 

市街戦となって、

立派な街がズダボロになった。

https://sputniknews.com/military/202002131078305198-battle-for-budapest-russian-mod-declassifies-files-on-brutal-campaign-for-hungarian-capital/

 

ということで、これはドイツが自分ちへの侵入の時間稼ぎをするのに、ハンガリーを使いましたというお話以外に何もないと思う。ブタペストが落ちてからも3月半ばぐらいまでハンガリー軍の一部はドイツ軍と一緒に抵抗している(石油をキープするという理由もあるにはある)。

 

■ 何をしていたのか

しかし、ではそれは石油の問題だけだったのか。というより、ここで休戦すれば石油は要らない。

では何をしていたのか。

多分、米軍のドイツ南部の進駐を待っていたんではなかろうか。

1944年にソ連に降参された日にゃ、ハンガリーからオーストリア(当時はドイツの一部)にソ連が入っていってしまう。史実よりもっと早くにベルリンに到達しちゃったかもしれない。

しかしいずれにしてもドイツは敗戦となるではないか、とも思えるけど、オーストリアやあわよくばハンガリーをソ連の「追っ手」から逃したい、と考えていた人たちがいたんじゃないのか、などとも思う。

まぁつまりハプスブルグ家残党の人たちとバチカンあたり、それを助ける目立たないが要所にいるダレスの仲間みたいなアメリカ人、って感じではないのか、と思う。

また、米(または英米)との取引で刑を軽くしてもらっていた人などもいたでしょう。

例えば、有名なアイヒマンの協力者のエトムント・フェーゼンマイヤーは、バルカンのユダヤ人を含む住民殺しの重犯罪人だし、上で書いたようなドイツのハンガリー工作にも絡んでいる。

この人は、1945年3月にザルツブルクでアメリカ軍の捕虜となる。そして確かに戦犯にはなるんだが、20年の刑のところ

1951年1月31日に駐ドイツ高等弁務官ジョン・J・マクロイ(英語版)の指示により10年に減刑され、12月に釈放された[9]。

みたいなことが起こってる。その後ドイツで右翼団体に入って政治活動みたいなことをして77年に死去している。

もしこれが、ザルツブルグで米軍に、ではなくて、ザルツブルグでソ連軍に捕縛されていたら、おそらくユーゴスラビアでの住民殺しの刑をもっとぎっちり償わされていた可能性は大きい。

 

また、再々書いているカナダの元外相フリーランドのおじいさんは、ポーランドのクラクフでナチの協力者として宣伝活動に従事していた人で、そのままいけば「ホロコースト」がらみの犯罪者として処罰されていてもまったく不思議でない人だったそうなだが、この人もドイツ南部の米軍のキャンプに行って、そこからカナダに移住する道が開ける。

「西側ではナチズムが生きている」カナダ編

連合軍のドイツの占領はこんな感じ。南が米軍。オーストリアはさらにその南。

Post-Nazi German occupation borders and territories from 1945 to 1949. British (green), French (blue), American (orange) and Soviet (red) occupation zones. Saar Protectorate (light blue) in the west under the control of France. Berlin is the quadripartite area shown within the red Soviet zone. Bremen consists of the two orange American exclaves in the British sector.

 

ということなので、このへんを細かく見ていくと非常に興味深いことばっかりになる。

 

■ ホルティ、ハプスブルグ、バチカン、そしてアメリカ

さらにさらに、ハンガリーの首脳で、休戦しようとしてドイツに妨害された哀れなホルティは、そこだけ見るといい人みたいだけど、そうはいってもハンガリーはナチの衛星国家として、イタリアとも並んだ枢軸国。

旧領の一部をもらえるといった話にほだされていくうちに、敢然とソ連に踏み込んだのみならず多数の虐殺問題にも絡む。セルビアのVojvodina(ボイボディナ)での虐殺はドイツ、ハンガリー、クロアチアの仕業。ユダヤ人虐殺、移送問題もある。スロベニアの分割占領もしてた。

なんてか、十二分にナチのお友だち。私の感想では、この時期のハンガリーは「時代遅れのろくでなし」といった趣。

だが、この人は結局、ほんの短期間証人のようにしてニュルンベルグには関わったが1945年12月に釈放された。

日本語のwikiにもあったが、何か書き方がすごい。ユーゴスラビアが悪いみたいじゃないの、これ。さすがナチ・シンパの国日本なのか。ホルティ

戦後拘留を解かれたホルティに対して、戦犯として裁く事を戦勝国側で唯一、ユーゴスラビアが要求したが、この訴えは連合国によって直ちに却下された。連邦に属するモンテネグロが第一次大戦敗戦後の、コトルでの暴動の鎮圧の件を根に持っていた事、又、ユーゴスラビアの社会主義政権が、かつての評議会政権を倒した事を問題視していた為だが、モンゴメリー元公使がホーマー・スティル・カミングス(英語版)司法長官に手を回し、戦犯指名から外れたとも言われている[14]。 

 

モンゴメリーもカミングスもアメリカ人。

英語版では、その後のホルティをモンゴメリー元大使とその後継者ペル、そしてピウス12世が金銭的に面倒をみた、とある。

まぁこのへんがハプスブルグ家繋がりでもあるんだろうし、深部アメリカは何をしていたんでしょうかと興味がつきないが、いずれにしても、まったくキレイな話にはみえない。

 

■ WW2シリーズ

1943年2月2日:スターリングラードでドイツ軍降伏

1944年1月18日、レニングラード包囲解消(プーチン献花

1945年1月17日:ソ連赤軍ワルシャワ解放

1945年1月27日:ソ連赤軍アウシュビッツ解放

1945年2月4日、ヤルタ会談始まる

 

 

関特演と1945年ソ連満洲侵攻作戦

 


 


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5 コメント

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歴史の審判はまだ下っていない (ミール)
2020-02-15 09:02:55
大戦末期のハンガリーのことは本当に西側では語られませんね。語られるとしたらソ連軍がひどいことをしたいう文脈で。英米は独ソの共倒れを願っていて,ドイツは最後は英米が助けてくれるだろうと思っていたことを隠蔽し,「そもそも悪いのはどちらだ?」という視点を人々に持たせないナラティブで洗脳しています。

西側のモスクワ特派員は楽な仕事だと聞いたことがあります。なぜなら,特に調べなくても適当にロシアの悪口を書いておけば済むから。それを日本のメディアの特派員はそのまま日本語にすれば済みますから,さらに楽な仕事になります。

話は若干それますが,大戦で大きな被害を出したブ街:ブダペストにせよ,ドレスデン,ワルシャワにせよ,そして勿論レニングラードなど,社会主義政権によってかつての街並みが復活しています。かたや西ベルリンなどは現代的な建物に置き換わってしまって,過去を偲ぶことができません。どちらが文化を大切にしたのでしょう。
これをユーラシアが学ぶ (ブログ主)
2020-02-15 11:54:15
ミールさん、

おっしゃる通り、戦後の西側のナラティブは独ソどっちにも言い分はある、みたいなインチキで、ついぞドイツとは何だったのか問題に触れられなかった。

この無茶ぶりを、ユーラシアの人たちは今後西側の愚かさ、惨さとしてロシアと共に学んでいくんでしょう。もう止められない。

おっしゃる通り、ソ連圏の方が街並みが残りましたね。

西側にとって重要なのは人々が根無し草になることだからだと思います。歴史のない、今だけ、ほんのちょっとの将来にしか興味のない人こそ理想でしょう。そうすれば正義感、レジティマシーなどといったものが問題でなくなる。詐欺師にとっては都合がいい。
Unknown (ローレライ)
2020-02-15 20:36:09
日本軍のマニラ戦と被るドイツ軍のブタペスト市街戦、西側に降伏する時間稼ぎの捨て石作戦
ナチのハンガリーへの執着 (名無しの在日)
2020-02-16 01:29:18
「ナチにとってのハンガリー」というものを考える時、以前は「なぜナチはあの段階で過剰ともいえるほどハンガリーに固執したのか」が、いまひとつはっきりしないまま(というか、なんとなくスルーしてしまっていた)でした。
同じ枢軸陣営のルーマニアやフィンランドなどは、わりと簡単に放り出していたのに、なぜ?

が、本エントリを一読すると、ナチとしてはブダペストを「第二のスターリングラード」にしてでもできるだけ長く手元に置いておきたかった、その疑問が氷解するような思いです。
その地理的位置、米英連合軍の進撃速度やオーストリア=ハンガリー帝国の遺産がらみの、あれやこれやとのタイミング合わせが、たまたまこの一点に集中したために死ななくてもいい人々が死に、崩壊の必要もなかった歴史遺産が灰になっていった、と。
この構図はその後現在に至るまで、米軍やその「有志連合」の軍事行動のたびに観察される定番ともいえるかと思います。

最近youtubeの二次大戦の未編集記録映像で、フランスでの独軍と米英軍との捕虜交換ドキュメントを見つけました。
中立地帯とおぼしきポイントで、両軍の担当将校たちが手続きのために集まっているシーンを見ると、東部戦線とは明らかに異なる空気—言うなれば「ある種の気兼ねの無さ」—がそこに漂っているように見えた、と書いては少し穿ちすぎでしょうか?
オースト&ハンガリー (ブログ主)
2020-02-16 13:43:22
名無しの在日さん、

ハンガリーは地理的には中欧の中心、要衝なのでソ連からすればここが中立的にならないうちは戦争は終われなかっただろうと思います。
ここが中心になったらもう一回戦争というのもあり得る。後年のハンガリー動乱はその延長のように思います。

それはそれとして、西のヨーロッパ各国は基本的にフランク族の民法の背景が共有されている「同じ世界」の人々なんだと思います。オーストリアもこっちの仲間。ハンガリーが微妙、といった位置取りではないでしょうか。

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