狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

僕52歳の求職活動からの連想(5/12)/Age of 52 my associations from job hunting・・・聖書的価値観による判断、誓いと運命、確認、ジャーナリスト

2021-04-01 01:00:00 | エッセイ・コラム
 <※本当の投稿日時
  True posted date & time:2021/04/08 04:21>

   (当方の都合にて、投稿日時を変更しております。
    I changed posted date and time for my convenience.)

 ※ 本記事において幾つかの文献と画像を引用する事によって構成しておりますが、本記事により当方は収入を一切受け取っておりません。
 ※ I have made composition by borrowing some references and pictures in this article, but I don't receive the income at all by this article.

 <→4/12からの続き>

 僕52歳の求職活動からの連想(5/12)
  Age of 52 my associations from job hunting
   ・・・聖書的価値観による判断、誓いと運命、確認、ジャーナリスト


 ……前掲した応募メッセージ内にて触れた通り、僕自身のタラントを活かす事で、神様から良しとされる。見栄や体裁が伴わないものでも、承認や名声、評判が得られないものでも、そういった世間的な評価が得られなくとも、神様から与えられたタラント、恵みを活かす事が、創造主に従う事となり、主の為に、主を褒め称える事に繋がろう。

 僕に適したものをすれば良い。僕の、世間一般から見れば、けったいな、変な、独特の、個性の強い、そんな要素、タラントを無駄にしない。
 そして、宇宙人とも揶揄されてしまいそうな、超自然的な、不思議な事が発せられたとしても、それは僕の仕業では無い。それは、神様の恵み、つまり、主が行われたのであろう。

 
 



 新約聖書・コリント人への手紙 第一15章10節
  ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです

 The New Testament・The First Epistle to the Corinthians 15:10
But by the grace of God I am what I am. His grace which was given to me was not futile, but I worked more than all of them; yet not I, but the grace of God which was with me.


 本ブログ
  ・2014/06/08付『お金・事業より優る「思想」、それをも上回る独立した名も無き小さな一個人の勇ましく高尚な真面目なる「生涯」・・・「後世への最大遺物・デンマルク国の話」を読んで』
  ・2018/01/09付「十日戎に見る日本人・・・地上での幸福のみを願う自分の欲望を神とした祈り、渇く水を追い求める人々、敬虔な信者は自分の事を願わず神に感謝し神を賛美、人それぞれのタラントに応じた務め」
  ・2018/03/19付「僕の先月の追記:I am“out-low”, servant, and no ability神様の恵みで益とされるPeople are made as good by the grace of God 」



YouTube: 神の導きに従って生きる 今日の聖書の言葉 2021年2月27日
2021/02/27

 
 



 旧約聖書・民数記9章15~23節
   幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。
  いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。
  雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。
  主の命令によって、イスラエル人は旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。
  長い間、雲が幕屋の上にとどまるときには、イスラエル人は主の戒めを守って、旅立たなかった。
  また雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。
  雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立った。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立った。
  二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立たなかった。ただ雲が上ったときだけ旅立った。
  彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命令によって、主の戒めを守った。

 The Old Testament・The Book of Numbers 9:15~23
   On the day that the tabernacle was raised up, the cloud covered the tabernacle, even the Tent of the Testimony. At evening it was over the tabernacle, as it were the appearance of fire, until morning.
  So it was continually. The cloud covered it, and the appearance of fire by night.
  Whenever the cloud was taken up from over the Tent, then after that the children of Israel traveled; and in the place where the cloud remained, there the children of Israel encamped.
  At the commandment of Yahweh, the children of Israel traveled, and at the commandment of Yahweh they encamped. As long as the cloud remained on the tabernacle they remained encamped.
  When the cloud stayed on the tabernacle many days, then the children of Israel kept Yahweh’s command, and didn’t travel.
  Sometimes the cloud was a few days on the tabernacle; then according to the commandment of Yahweh they remained encamped, and according to the commandment of Yahweh they traveled.
  Sometimes the cloud was from evening until morning; and when the cloud was taken up in the morning, they traveled; or by day and by night, when the cloud was taken up, they traveled.
  Whether it was two days, or a month, or a year that the cloud stayed on the tabernacle, remaining on it, the children of Israel remained encamped, and didn’t travel; but when it was taken up, they traveled.
  At the commandment of Yahweh they encamped, and at the commandment of Yahweh they traveled. They kept Yahweh’s command, at the commandment of Yahweh by Moses.


 「主の命令によって」と繰り返されて強調され、そして「旅立ち」、「宿営した」と在る。
 また、「主の命令によって、主の戒めを守った」、「主の戒めを守って、旅立たなかった」とも在る。
 人生という旅に於いて、何物をも置いて創造主を第一としながら、主の戒めを守り、主の命令に従って、主に導かれて歩んでいく。


YouTube: 謙遜な人 今日の聖書の言葉 2021年2月28日
2021/02/28

 
 



 旧約聖書・民数記12章3節
  さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。

The Old Testament・The Book of Numbers 12:3
  Now the man Moses was very humble, more than all the men who were on the surface of the earth.


 古代ユダヤ民族の大指導者にして大預言者であったモーセでさえ、創造主である唯一の絶対神の御前に於いては、謙遜、謙虚であり、神様に絶対服従していた。


YouTube: 「盗人のように来る主」黙示録3章1節から3節
2021/02/27

 
 



 新約聖書・ヨハネの黙示録3章1~3節
  また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
  目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
  だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

 The New Testament・The Revelation of John 3:1~3
  “And to the angel of the assembly in Sardis write: “He who has the seven Spirits of God and the seven stars says these things: “I know your works, that you have a reputation of being alive, but you are dead.
  Wake up and strengthen the things that remain, which you were about to throw away, for I have found no works of yours perfected before my God.
  Remember therefore how you have received and heard. Keep it and repent. If therefore you won’t watch, I will come as a thief, and you won’t know what hour I will come upon you.


 「あなたは生きているという評判(reputation)がありますが、あなたは死んでいます。」
 「reputation」は、評判の他に好評、名声という意味も有る。
 とかく、世間、社会の中では、貪欲な姿が誉め讃えられがちだ。欲にまみれて遊びやレジャーとかで派手に金を使い、高級品を買い漁り、高価な衣服や宝飾品を身に付け、高級住宅に住んだり、高級車に乗る。また、そんな事をする為にも、その分、お金をいっぱい稼ぐ。

 そんな姿は一見すると、エネルギッシュで、アクティブに見え、明るく、生き生きとして見える。反対に、貧乏で貧相な姿、慎ましく質素な姿は、今にも死んでしまうのではないかと思われ兼ねない。
 貪欲とは、欲が深く飽く事を知らないという意味が有るが、言い換えれば欲張り、強欲、がめつさとも言える。
 「生きているという評判」とは、そんな貪欲である事であり、それは「実は死んでいる」。

 子供の教育費や親の介護費、その他、生活費を賄うのに苦しいが為に、また、下請けの町工場の鉄工所の職人が、納期までの時間が無い仕事をするのに、残業や残業の延長、休日出勤をし、また、前者の場合はそれだけでは無くダブル・ワーク、トリプル・ワークまでしている人々が居る。これらの人々は、仕方がないと言えなくは無い。
 また、ハングリー精神、向上心が有って、そういう風にやっている人々も居る。しかし一方で、貪欲にプライベートを満たしたいが為に、より多くのお金を稼ごうとしてやっている人々も居る。こちらの方は、頂けない。
 
 「キリスト者が眠ってしまうことについて」と、牧師が述べている。いずれにしても、そんな仕事まみれ、金稼ぎまみれ、そしてお金に余裕の有る者はお金を手にして貪欲まみれとなって、時間や気持ち、頭や心の精神面には余裕が無く、今後、イエス様が再降臨して来る時には気が付かない。
 ジャーナリストとして日記を付けながら、政治、社会情勢、国際情勢を、目を覚まして見る。そして、終末的な様相を呈する中で、イエス様が来られる時が近い事を知る。

 本ブログ
  2019/11/27付『ザリフ外相「戦争止める努力続ける」ライター「ジャーナリストは抑止力」/"I continue effort that stop war""Journalist is deterrence force"』


YouTube: 主に尋ねる姿勢 今日の聖書の言葉 2021年3月7日
2021/03/07

 
 



 旧約聖書・民数記27章5節
  そこでモーセは、彼女たちの訴えを、主の前に出した。

 The Old Testament・The Book of Numbers 27:5
  Moses brought their cause before Yahweh.


 自分の事に関する願いや希望を神様に祈るのでは無く、虐げや迫害に遭っている人達に同情し、共感し、連帯して、それらの人達の事について神様に祈る。
 また、自分の意志や欲望が叶う様にと祈るのでは無く、神様の御心通りに行える様にと祈り、神様に感謝し、神様を賛美し、神様の栄光を褒め称える祈りをする。


YouTube: [NEWS] クリスチャン クリエイターズ マーケット「Gift Box」|CGN FOCUS
2021/03/10

 2021/03/11付の僕のコメント
  「それぞれの持っている光をこの世の中にインパクトを持って発信できる」
  「神様のために自分の持っている賜物を持って」

  僕も、「ものづくり」や「ものを書く」仕事をしているクリエーターとして、共感します。
  自分の個性、アイデンティティであり、また、我慢や忍耐という「自分の十字架」を背負うという捉え方、感じ方から成長・成熟した、神様から与えられた恵みであるとして感謝、喜びを持った「タラント」を活かし、神様の御心である運命、宿命、使命に従って、この世に於いての僕の役割を果たします。
 (コメントはここまで)

 「光」、「賜物」とは、正に、人それぞれが持っているタラントの事だ。
 でも、ここで言うのは特に、クリスチャンそれぞれが持っている個性、アイデンティティといったタラントであろう。
 そして、クリスチャンそれぞれがイエス様の身体の一部となって役割分担をしながら、一体となるのであろう。
 このYouTubeビデオを見て、タラントを活かした「クリエーター」という事に共感し、応募を辞退する事に、ハッキリ踏ん切りが付いた。見る前から辞退する様には考えていたのだが、一気に後押しされた感じであった。
 

YouTube: ちっぽけな覚悟、されど覚悟 今日の聖書の言葉 2021年3月13日
2021/03/13

 
 



 新約聖書・マルコの福音書14章30~31節
  イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」
  ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。

 The New Testament・The Gospel of Mark 14:30~31
  Jesus said to him, “Most certainly I tell you that you today, even this night, before the rooster crows twice, you will deny me three times.”
  But he spoke all the more, “If I must die with you, I will not deny you.” They all said the same thing.


 その応募辞退に際し、改めて、3年半足らず前(追記部分は3年足らず前)の2017年11月に誓いを立てた「Preparation」を確認した訳だ。しかし、その心構え、覚悟、そして今後の目的や使命として宣言した事とは裏腹に、嘘を付いてしまう様にして、やる事為す事がその通りとはならない可能性が有る。
 誘惑や挑発に負けたり、臆病、迎合、媚びへつらいにより自分の信念を曲げてしまう等と、所詮、人間は、そんな風に弱いものであるので、その人間が立てる誓いや計画が「ちっぽけな覚悟」であるとおっしゃる。

 岩の様に固い信念を持つはずのペトロが、教会の礎になる宿命を負ったペトロが、イエス様について「知らないなどとは決して申しません」と誓ったにも関わらず、「知らないと三度」言ってしまった。
 僕も、固い信念、Preparationを頑固に抱きながらも、今回の様に揺れ動いたりする事が有る。ただ僕の場合は、試しに応募してみた結果、結果的に、そのPreparationに掲げた事が神様の御心と合致している可能性が高い事が解った。

 実際、世間一般的には、誓い、目標、計画といったものが、自分の欲望を基にした単なる思い込み、自分勝手な希望であって、神様の御心とはかけ離れている場合も多々有る故に、人の考えた通りには物事が進まない場合が多くなっている。つまり、そんな人の恣意的な計画が、神様が立てた御計画である運命に逆らっているからだ。

 そんな弱い人間、中でもクリスチャンが、イエス様を信仰すると誓いながらも、聖書の記述内容、聖書的価値観に反する事を犯してしまう。それでも、クリスチャンである限りは引き戻され、試練が与えられて練磨され、その都度反省し、悩み試行錯誤を繰り返しながらも、覚悟を持って頑固にイエス様を信仰し続けるならば、救われるのだろう。

 以下、2021/03/12付・日本Christian Today「自由人として生きる 菅野直基」より 
  『……私たちには、罪を犯さない自由があり、この世と妥協しない自由があり、人の顔色を恐れて行動を変えない自由があります。冒頭の聖句にあるように、すへての人を敬う自由があります。「すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい」
  自分の利害や損得、好き嫌いで人を判断し、ある人を高くし、ある人を低く扱う人がいます。自分の罪の性質から自由になっていない故にそうしてしまうとしたら、それは罪の奴隷です。自由人ではありません。……
…(中略)…
  ……自分の好き嫌い、利害や損得などの自分のこだわり、古い人、罪の性質などから自由にされていることを感謝して、神が喜ばれる生き方を目指していきましょう。』
 (以上、2021/03/12付・日本Christian Today「自由人として生きる 菅野直基」より)

 
 



 新約聖書・ペテロの手紙 第一2章16~17節
  あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。
  すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。

 The New Testament・The First Epistle of Peter 2:16~17
  Live as free people, yet not using your freedom for a cloak of wickedness, but as bondservants of God.
  Honor all men. Love the brotherhood. Fear God. Honor the king.


 人の反応や批評、評判、承認、バッシング、干渉に迎合して従う事は、間違いである。しかし、この世の中を出来るだけ無難に渡り歩いていこうと思えば、そんな世間とも多少の擦り合せが必要とされてしまう。
 特に日本人の場合は、昔から村八分で排除したり、隣組で監視・密告を行なって来た様に、今までにも「空気読め!」と言ってその場の雰囲気に合わせる事を強要したり、現在でもコロナ禍の中で同調圧力、自粛警察と、まるで警察国家、全体主義、ファシズム、共産主義体制の中で生活している様に、個性が強く一般的なものから距離を取って客観視して見ている僕なんかは感じている。

 一方、「神の奴隷」と成る事は正しい。イエス様を信じ、自分の主(あるじ)として主(しゅ)に心を委ね、この世での旅路に於いてイエス様に導かれて歩んで行く。
 「自己実現」しようとするのでは無く、「神実現」と成る様に祈る。自分の欲望を捨てて、神様の御心、思し召しの通りに生きていける様に祈る。神様に従うとは、そんな、運命、定めに則り、宿命、使命を果たす事だ。
 本当の自由とは、そんな、神様に委ね切った時に得られる、心が解放された状態だ。自分の欲望や世間の承認等に囚われている限り、心はそれらの奴隷となっている。

 本ブログ
  2020/05/20付「みんな同じ日本人は共産主義が好きなのだろうか?リンチされる個性、空気の全体主義、顔色伺う監視密告/Do Japanese who are everyone same like communism?」

 以下、2021/03/08付・日本Christian Today「キリストの道を歩もう 万代栄嗣」より 
  『今日開いた詩篇119篇では、信仰生活の本質が描かれています。……
  …(中略)…
  1. 神の御言葉に立って歩む道がある
  119篇には、みおしえ・仰せ・戒め・さとし、という言葉が何度も出てきます。神様の教えがあるのです。今の世の中、何でも自分の思い通りにいけばよいという風潮がありますが、そうではありません。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(119:105)。神の御言葉を土台とし、御言葉の光によって歩みましょう。3月は、さまざまな知恵や決断が必要とされる時期です。人の言葉や世の中の流行ではなく、常に神の御言葉に立って生きる道があることを感謝しましょう。
  2. 常に平和と平安が与えられる
  聖書が言う平和とは、単に戦争がない平和だけでなく、心に落ち着きや神による安らぎが与えられることです。
いつも不機嫌でイライラしている人は、平和や平安が失われているのです。「あなたがたが私から学び、・・・見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます」(ピリピ4:9)とあるように、神の御言葉を守り、実行するならば、神は必ず平和と平安を与えてくださいます。神の御言葉に立って歩むなら、必ず平和の神が共にいてくださり安定した歩みができます。
  3. 私たちの道には救いの希望がある
  …(中略)…
  4. 神の愛が常に注がれている
  …(中略)…
  「私の人生は、あなたの御前にあります。私の人生のすべてが、神と共にあります」と告白し、信仰の一本道をしっかりと歩み続けましょう。神の愛と恵みは、あなたに注がれています。』
 (以上、2021/03/08付・日本Christian Today「キリストの道を歩もう 万代栄嗣」より)

 
 



 旧約聖書・詩篇119章165~168節
  あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。
  私はあなたの救いを待ち望んでいます。主よ。私はあなたの仰せを行っています。
  私のたましいはあなたのさとしを守っています。しかも、限りなくそれを愛しています。
  私はあなたの戒めとさとしを守っています。私の道はすべて、あなたの御前にあるからです。

 The Old Testament・The Book of Psalms 119:165~168
  Those who love your law have great peace. Nothing causes them to stumble.
  I have hoped for your salvation, Yahweh. I have done your commandments.
  My soul has observed your testimonies. I love them exceedingly.
  I have obeyed your precepts and your testimonies, for all my ways are before you.


 「あなたのみおしえ」が、英語では「your law(あなたの法)」、「あなたのさとし」が「your testimonies(あなたの証言)」となっている。
 神様の「御教え、諭し、戒め、仰せ」が、聖書に書かれている。聖書に書かれている真理は、神様による立法であり、神様の証だ。

 世間の人々やマスコミの言葉に頼るのでは無く、そんな世俗から離れて独立した聖書の真理に従って歩むなら、つまり、信仰心を持ってイエス様と直接繋がるならば、心の中の静寂や安定が得られよう。
 そして、そういった、周囲の反応や動向に動かされない、泰然自若、確乎不動とした、本当の強さが得られるので、生活や収入、そして人生の旅路も、安定して来るのであろう。


YouTube: 戦う心構え 今日の聖書の言葉 2021年3月21日
2021/03/21

 
 



 旧約聖書・申命記20章3~4節
  彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。
  共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。」

 The Old Testament・The Book of Deuteronomy 20:3~4
  and shall tell them, “Hear, Israel, you draw near today to battle against your enemies. Don’t let your heart faint! Don’t be afraid, nor tremble, neither be scared of them;
  for Yahweh your God is he who goes with you, to fight for you against your enemies, to save you.”



YouTube: 「戦場にいる自覚」ダニエル書10章10節から14節
2021/03/27

 
 



 旧約聖書・ダニエル書10章10~14節
   ちょうどそのとき、一つの手が私に触れ、私のひざと手をゆさぶった。
  それから彼は私に言った。「神に愛されている人ダニエルよ。私が今から語ることばをよくわきまえよ。そこに立ち上がれ。私は今、あなたに遣わされたのだ。」彼が、このことばを私に語ったとき、私は震えながら立ち上がった。
  彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。
  ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、
  終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。なお、その日についての幻があるのだが。」

 The Old Testament・The Book of Daniel 10:10~14
   Behold, a hand touched me, which set me on my knees and on the palms of my hands.
  He said to me, “Daniel, you greatly beloved man, understand the words that I speak to you, and stand upright, for I have been sent to you, now.” When he had spoken this word to me, I stood trembling.
  Then he said to me, “Don’t be afraid, Daniel; for from the first day that you set your heart to understand, and to humble yourself before your God, your words were heard. I have come for your words’ sake.
  But the prince of the kingdom of Persia withstood me twenty-one days; but, behold, Michael, one of the chief princes, came to help me because I remained there with the kings of Persia.
  Now I have come to make you understand what will happen to your people in the latter days, for the vision is yet for many days.”


 「悪魔悪霊の組織に足元をすくわれないためのお分ちです」と、牧師が述べられる。
 クリスチャンにとって、この世の中で生きていくという事自体が、戦場で生きている事となる。

 世間では、「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んで」おり、そして、大衆の中に存在する「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥」になっており、「彼らの思いは地上のことだけ」になってしまっている(「 」内:新約聖書・ピリピ人への手紙3章18~19節より)
 しかし、使徒パウロは「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」(同書3章20節)と述べられた。

 クリスチャンであるならば、この世の命よりも、後の天での永遠の命の方を重視する。そして、この世での生き方が、天国に入れるか、それとも地獄に落とされるかを決定付けると考える。
 尤も、一度、罪を犯したからといって、それで地獄行きが決まる訳ではない。その、新約聖書の大部分を書いた使徒パウロも、イエス様を受け入れる前は、原始キリスト教徒達の多くを迫害して罪を犯していた。しかし、表面的な反省に留まらず、心からの悔い改めをして改心した事により、キリストが「万物をご自身に従わせることのできる御力によって」、パウロの「卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変え」られた(「 」内:同書3章21節)

 使徒パウロは、改心してから行なった各地での伝導に於いては、多くの苦難、困難が立ち塞がり、試練、迫害、そして陰謀、圧力が掛けられた。
 イエス様も、3年半の公生涯の中で困難を伴い、その時に於いての最後は、当時のエスタブリッシュメントの陰謀によって十字架に架けられ、暗殺されてしまった。……

 <6/12に続く→>


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