Ad novam sationem tecum

風のように日々生きられたら

探し続ける愛のことば

2018-12-22 01:45:01 | 日々の徒然

こんにちは。

あっという間に年の瀬、師走でございます。
ほぼ一か月更新となってから、マイペースに書いております。

先月、スピッツのライブの感想(7月ライブの感想です。←遅くてごめんなさい。)を書きました。

そのあとブログを書いていない時期に触れた心に残ること(音楽やその他もろもろのこと)を
これからは書いていこうとか思っていますが、

今回は、平成最後の年末ということで
きっと鬼も笑わないこれからのことに想いを馳せて
今思うことを書いてみたいと思います。

今日はね
日本の神様のことについて書いてみたいと思うわけです。

神様は7日間で世界を創ったと言われたりもしますが、
日本の「国生み」というのは
それとは、ちょっと違っていて。

まだ、陰陽も、雌雄(めを)もわかれていなかった頃の話です。

この世界は混沌としていて
そういった“対(つい)”になるものが存在する前の
二つの“気”のようなものが
或いは交わり合いながら、
或いは交わることなく
漂っていました。

その“気”のようなものの中には
牙(きざし)のようなものが含まれていました。
そして、そこに三柱の神様が生まれました。
(ここでの“生まれる”は「化為(なる)」「生(ある)」と訓まれているように
 「なった」・「出現した」という意味に近いかもしれません。)

この神様は“国”を「生む」ための神様です。
とは言っても、まだ天も地も存在していないので
“国(くに)”というのは
今でいうところの“世界”の“概念”に近いものだと思います。

神様たちには全て性別があり、
ちなみにこの三柱の神様たちは皆“純男(をとこ)”の神様で
“乾道独(あめのみちひとり)”ということなので
“陽”の性質をもった一人神(“対”になる存在はいない)ということになります。

それから、
この“世界”を構成していくさまざまな神様が
“生まれて”いきます。

いわゆる男女の“対”の神様が出現するのはそのあとで、
泥土煮尊(うひぢのみこと)、沙土煮尊(すひぢのみこと)
それから
大戸之道尊(おほとのぢのみこと)、大苫辺尊(おほとまべのみこと)
大面足尊(おほおもだるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)
伊奘諾尊(いざなきのみこと)伊奘冉尊(いざなみのみこと)
が“生まれ”ます。

泥土煮尊(うひぢのみこと)、沙土煮尊(すひぢのみこと)は、
“とろとろ”として“べちゃべちゃ”した
或いは“さらさらとした”神様で、

大戸之道尊(おほとのぢのみこと)、大苫辺尊(おほとまべのみこと)は、
“細く狭い通路のようなものを二つの入り口を合わせることによってつなげる”神様です。

大面足尊(おほおもだるのみこと)は
“君、かわいいよね”という神様で
惶根尊(かしこねのみこと)は
“いや、そんなことはないです(照)”という神様です。

伊奘諾尊(いざなきのみこと)伊奘冉尊(いざなみのみこと)は
知っている方も多いとは思いますが、
後で詳しく述べますが、上述のような感じで私的に定義するとすれば
伊奘諾尊は“誘う”神様で、伊奘冉尊は“誘われる”神様です。

「いざ」という言葉は今でも「一緒に何かしよう」とするときに使われる言葉として
かろうじて文語に見られるのでニュアンスは伝わると思います。

伊奘諾尊と伊奘冉尊はいろいろなエピソードが加えられているように
今でいうところの夫婦としての認識がありますが、
いわゆる男女としての性別がよりくっきりしている印象があるのは、
これまでの神様が生まれたあとに最後に登場した神様であるためかな
と思います。

これまでの神様について私が書いた言葉による“概念”を辿っていただくと、
これらの神様の一連の出現が
どのような“行為”を指し示しているかは、
お分かりになるだろうとは思いますが、

要するに、
べちゃべちゃ、とろとろしたものが
或いはさらさらとしたものが
あるかたちをなし、

二つの入り口を合わせることによって
通じあうという概念、

自分の目の前の存在が美しいと思う、
という概念
そしてその想いを慎み深く受け入れる
という概念、
そして、
相手を誘う、相手から誘われてそれを受け入れる
という概念。

つまり、
いわゆる生命の誕生に必要な概念がひととおり述べられているわけです。

このあと、有名な挿話ですが、
伊奘諾尊と伊奘冉尊は天浮橋(あめのうきはし)に立って
天之瓊矛(あまのぬほこ)で下界をころころとかきまぜて
大海原ができ、その滴(しずく)で嶋ができたと言われています。

天之瓊矛(あまのぬほこ)というのは
エヴァに出てくるロンギヌスの槍のようなものであり、
思うにエヴァも
“槍”とそれを受け入れる“器”との“交合”により
“世界”が創られるということで、
なかなか面白い共通点だと思います。

話は戻って、
ここでできた海と嶋は天と地の間にあるもので、
いわゆる「海」と「嶋」は伊奘諾尊と伊奘冉尊がそのあとに
洲国(くにつち)を生む段階まで待たなければなりません。

そこで、いわゆる大八洲(おおやしま)と呼ばれる
日本列島の一部が誕生した、と言われています。
(あくまで神話の中で、の話です。)

よって、
日本列島という島々は
伊奘諾尊と伊奘冉尊が
“生んだ”ということになりますが、
若干、このあたりの日本書紀・古事記の記載は
“生む”というニュアンスよりも“作った”に近いかもしれません。
(まぁその辺りの違いについてはここでは詳しくは述べません。)


これ以降の二神の“生む”という行為は、
より男女の交合に近い形になります。
二柱の神のこれらの“生む”という行為は
「みとのまぐわい」と呼ばれ、“共為夫婦”とか“溝合”と書かれたりします。

この二柱の神様の“共為夫婦”によって
後の天孫となるべき神様を“生む”ことになる
“天照大御神“や“素戔鳴尊”が生まれるわけです。

つらつらと、日本の現存する古典に記載されている
古代における“国生み”について
つらつらと書いてきましたが、

私が言いたいのは、
“生む”ということの古代における考え方です。

よく、生命の起源の話になると
どうしても“鶏が先か、卵が先か”という議論に陥りがちですが、
日本神話における古代の“生む”という概念を考えると、
意外とこのあたりが自然に説明されるような気がするわけです。

つまり、モノ(物の種:モノザネとも言いますが)としての
生命の誕生の以前に、“概念”が誕生した
ということです。

“概念”は違う“概念”を“生み”、
いつしか、それは“行為”となって
“モノ”を“生む”ということです。

生物学的に考えても
例えば、
人類の祖先と呼ばれるモノが
誕生したとき、
それはさまざまな“交合”による結果だったと
いうことはできると思うのですが、

つまり、
日本の原初の神様達は
いろんなモノと“交合”し、
いろんなモノを“生み”出しています。

神様が“生んだ”モノは
神様であり、
それはすなわち、
天であったり、
地であったり、
太陽であったり、
月であったり
水であったり、
火であったりします。

そして、それらの神様は
違うモノ(神様)を“生み”出します。

ちなみに
後の“人(ヒト)”と“交合”することになる
天孫は“火”の系列の神様に属し、
天照大御神が素戔鳴尊の勾玉を噛み砕いて“生まれた”神様で
その血統を保って今の天皇につながっている、
ということになっているようですが、
そのあたりのことは少し置いておくことにします。


そういった形で実に様々なモノやあるいは“概念”から
神様は“生まれ”、
やがて
人も“生まれ”たのです。

今私たちが
考える“生む”という生命の誕生というのは、
すなわち雌雄の区別のあるものが
交合の結果、
別の生命体を生み出す行為のことを指し、

特に、同種の個体における交合が
一般的と言われていますが、

もちろん、
単細胞生物など
雌雄の区別を持たず、
分裂や、その他の自己複製機能を持つ個体もいるわけで

そういった個体が原始的なものであると
言われていることもまた
なるほど、と納得するところであるわけです。

今見てきた、古代の神様の“生む”
という一連の行為もまた
生物学上の事実と一致するわけです。

ただし、生物学ではあくまでも
分子として存在するレベルでの生命体についての定義のみが
行われているため、
“概念”が“概念”を“生む”ということにまでは
もちろん言及してはいません。

しかしながら、
人類が誕生するまでの過程において
さまざまな種類の個体間での“交合”が必須であったことは
現在における生物学上の諸説とも符合しますし、
その“行為”がなされるためには
それを“そうさせる”ための“概念”が必要であることは
明白で、

事実、古代においては神様が
さまざまな種類のモノと“交合”したとすれば

日本神話だけでなく、
例えば、エジプト文明におけるスフィンクスなどの人面獣神や
壁画に描かれた鳥の頭を持つ人型の神様、
或いは、
ギリシャ神話におけるケンタウルスなど
さまざまないわゆる“一般的な人間でない”神様についての
説明もできるのではないかな
とか思ったりしています。

だからこそ、
日本では、
人(ヒト)以外のさまざまなモノ
森羅万象
あらゆる
すべてのモノに生命が宿ると考えたのではないかな
とも思えます。


しかしながら、
この考え方も
ある時期を起点として
一掃されてしまいます。

いわゆる「神殺し」が行われたのです。

(この最初の「神殺し」について
ここで詳しくは書きませんが、
私はその答えに辿りついたし、
この答えに辿りついた先人達同様
そのおおまかなニュアンスを伝えるだけにとどめようと思っています。)

たくさんの神様が殺されて、
いつしか
日本は人間だけの国になったのです。

表向きは、
そういうことになりました。

でも、人々の心にはずっと神様が残っていました。

だからこそ、
あらゆるところに神様はいました。

日本では
何度かこのような
「神殺し」が行われています。

一つのわかりやすい例をあげると、
それは、
第二次世界大戦終了時の
天皇からの神格の剥奪です。

今、考えると誰の目にも明らかなのですが、
太平洋戦争は神様のせいで起こったわけではありません。

そこに、神様との因果関係を敢えて顧みるとするならば、
人の神様を信じるという心が利用された、
と言うよりほかはありません。

今でも
神様の名前を利用してたくさんのところで
意味のない戦争、意味のない殺し合いが行われていますが、

太平洋戦争の終了時、
天皇が神格を剥奪されたという結末に至ったのは
これもまた神様の意思なのかもしれないな
と私は最近思うようになりました。

神様を信じたばかりに、たくさんの命が奪われることを
神様自身が見ていて、
それをとめようとしても
人々が争いを続けたとき
神様は自分を殺すしかないと
人々から自分の存在を消すしかない
と思ったのではないかな

私は思いました。

神様を殺すことにより、
人間は新しい時代を手に入れることができます。

そして、
文字通り“生まれ変わった”気持ちになって
人間たちは新しい生命活動にいそしみ始めますが、
結局、同じことを繰り返すのです。

だから、
日本では何度も
同じ様な「神殺し」が行われてきました。

人間はちっとも変わらないのです。

古代に神殺しを行ったときから
全く変わらないのだと思います。

確かに科学技術は進歩しました。

生命活動に必要な生活水準も向上しました。

けれど、人間はちっとも変っていないのです。

私は最近、
テレビをあまり見ずに
昔読んだ本を読み返したり
しているんですが

その中で遠藤周作の「沈黙」を
改めて読んでみて
当時キリスト教を迫害した人達の言い分が
今いる人たちのやっていることと同じなのに
笑いそうになりました。

「社会がこうなっているので仕方ない」
という素ぶりを見せながら、
嬉々として相手の信仰心や神への愛を踏みにじる行為。

結局「社会のせい」ということにしてしまえば、
「社会は変えることができないから、意味がない」
と言って、
自分たちの都合の良いように生きているだけです。

遠藤周作は日本では神様への愛という信仰心が
根付かないという結論を出していますが、

根付かないというよりは、
神への愛、
絶対的な愛、
他者を盲目的に信じると言う行為が
社会的に徹底的に排除されてきた結果
そうなったのではないかと思います。

確かに
キリスト教というものにおける
信仰とは違ったものとして
当時の日本の人たちは
キリスト教を受け入れたかもしれません。

それは愛に対する飢え、
人として扱われることに対する喜び、
それを初めて知ったことの嬉しさ、
とか、
本来のキリスト教の神への愛とは
違っていたかもしれません。

でも、あれほどに
穴吊りやその他諸々の責め苦により
迫害されながらも
殉教してまで信念を守り抜いた信者たちの想いは、

たしかに
自分の探し求めた想いが
真実であることを
自分自身が一番良くわかっていたからではないかな
と思います。

だからこそ、
社会に反しても
殺されても
自分の信じるという気持ちを
やめなかった。


誰のための社会なのか、
誰のための国なのか、

それは、一部の特権階級の人たちのため
というよりほかはありません。

でも、一部の特権階級の人間よりも
それ以外の人間の数が多いのは明白で

そのために、
日本では連帯責任と言って

“社会という一部の特権階級の人たちや
それに与する人たちのために考えられた仕組み”
に反する“概念”は徹底的に排除されました。

それは、近代化と呼ばれる今も、
“民主主義”という多数決の原理に形を変えて、
日本の“あらゆる思考”を統制しています。

逆に言えば、
そういった“概念”から“生みだされる”“概念”あるいは“モノ”に対する
異常なまでの畏怖、脅威を、
それを制しようとしている人たちの誰しもが知っているからでしょう。

この日本には神様が
まだいるのです。

でも、
例えば、

今、
現在着々と行われようとしている
元号改正というのもそうですが、

天皇の譲位が
単なる社会システムの一部として
組み込まれようとしていることが
わかります。

例えばそれは、
昭和天皇が崩御したとき
皇居近くで割腹した人
とか。

例えばそれは、
同じ様に戦後
割腹した三島由紀夫
とか。

夏目漱石の「こころ」に出てくる
先生が
明治天皇の崩御とともに
死んでいることとか。

そういう同じ日本人の気持ちが
多分全くわからない人たちなんだろうな
と。
あなたは、わかりますか?

たぶん、わかろうともしない。

そうして、
同じ日本人の気持ちも何もわからない人たちだけで
この国の全てのことが
いとも簡単に変えられようとしていることは確かです。

他の人たちはそのことに
意図的に或いは意図せず
無知であり、無関心です。

これもひとつの「神殺し」なんだろうな
と思いますが。

そうやって、
日本は過去をどんどん失っていくのだと思います。



でもね。

神様は
きっと人の心に生き続けると
私は思うし、

例えばそれは
私が古代の真実に辿りついたように

きっとその真実を理解できる人たちも
同時に“生まれて”くるだろうと
思うのです。


私事になりますが、
私は、一部の人達(結構な大人数(笑))から
目の敵にされていて。

理由とか
多分大したことではないのでしょうけれど
現実生活でたくさんの嫌がらせ行為にもあい、
惨憺たる目にあっています。

その憎しみはどこから来るのか
その人達の自己満足な行為は
恐らく私が死ぬまでやめないつもりなのでしょう。

それくらい私は
あらゆる人々の仮想敵にされているようです。(笑)

例えば、
それは、
伊奘冉尊や
八俣の大蛇が
敵として登場させられ
殺される
日本神話とよく似ていると思います。

実際の事実関係もよくわからない人たちが
自分が都合の良いように理解し、
そういった神様達を嘲けり笑い
踏みにじる行為と似ています。

そんな神様達を殺したところで
多分殺した人間たちは
その後も全く変わらないのです。

伊奘冉尊は火の神(後の天孫の血統となる神様)を生んで
そのあと
その火によって焼かれて殺されてしまいますが、

なぜだか
日本ではそのあとの黄泉の国での伊奘冉尊の説話が有名で
伊奘冉尊の死体を見てしまった伊奘諾尊が
怒った伊奘冉尊から追いかけられる場面など、
私に対する嫌がらせなどでも散々使われました。
(何故嫌がらせにつかわれたのかはここでは敢えて言いませんが(笑))

例えば、桃太郎の話も、金太郎の話も
元を辿れば、勝者による作られたストーリーに過ぎません。
殺した相手を敵に見立てて、それを勝者が正しい事実として
伝えるためのものです。

そして、後世の何もわからない人たちが
あれやこれやとぬかすのです。

ほんとに意味ないなと。

だから、私は、つい言ってしまうのです。
声を奪われた人たちの声となって
私が代わりに、言ってあげたくなるのです。

別に私は人間の敵のつもりはありません。

ただ思うのは、
古代のさまざまな命をいつくしみ
新しい命を生みだし続けた神様のほうが
私は正しいのではないかということです。

伊奘冉尊が言った言葉に
「一日に千人の人を殺してやる」
というのがありますが、
(この言葉を伊奘冉尊が本当に言ったかどうかは不明ですが)
その後、人間が争い続けた結果
事実としてそうなったことは
まさに伊奘冉尊の言った通りになってしまったわけで。

要するに、神殺しのあとに
こういう“行為”の“概念”が“生まれ”ると、
結局は、そうならざるを得ない、
ということなのかもしれません。

私を殺したいほど憎んでいる人たちに私は言いたい。

私は神様ではありませんが、
私を殺して、新しい世界に変わるのなら
私を殺してみればいいんじゃないかと。

でも断言しよう。

きっとその人たちの世界は全く変わらないであろう
と。

まぁ、多分私を殺す勇気もないとは思いますが。

私も
殺されないように頑張るつもりですし(笑)

私は、新しい世界とは
もっと違った迎え方ができるのではないかと
思っています。

何度殺されても、
人々の心には
神様がいる。

だから、
自分の心の中の神様と話をすれば
神様はその人を
守ってくれる

私は信じています。

それは、
あらゆる森羅万象のモノに対する
慈しみの気持ちにも通じ

本当の“愛”という想いにも
通じるのではないかなと
私は思います。


私は
この嫌がらせにあう日々の中で
本当に心を揺さぶる人や、物事を見つけるのが
上手になったような気がします。

だから、
これからも楽しいことを見つけ
好きなものを好きと言い
嫌いなものを嫌いと言い(あまり言うつもりはないけど聞かれているらしい(笑))

この“世界”を見続けていきたいし、
確かな“私”として
生きていきたいな、
と思います。

たぶん神様は
この世界をたくさんの素敵なモノで
埋め尽くしたいのだと
思う。

だから、人間にこれほどまでに
たくさんのモノや概念を生み出す能力を
与えた。

それが、人間のよいところだと
私は思います。

色とりどりの
未来を。

この世界のたくさんの素晴らしき神様を

どうか
殺さないで。



*  *   *  *   *    * 

  

と、
ここまで書いて
日付が12月21日から
12月22日に変わってしまった。

本当は
12月21日はspitzの草野正宗さんの
お誕生日だったので
それに間に合わせたかったのだけど、
無理だったみたいだぽよ。

ごめんなさい。。。

でも、12月はお誕生日の人が多いみたいで、
キリストも含めて
12月生まれの人(神様)お誕生日おめでとう
ってことにしておこう。(笑)

12月以外の人もおめでとう。

今年も無事に生きていてよかったってことで。

これからも
頑張って生きていきましょう。

実は
私は7月のspitzのライブのあとで
マサムネさんのお名前にある運命を感じてしまったのです。

昨年の9月のライブに行ったあと
このブログをずっとspitzのライブの記事にしてたのは
わざとなんですけど

何故なら、このブログを開いたら
あの夜の楽しくて、幸せだったことをすぐに思い出せるし、

そのことをこのブログに来る人に
いつも知ってもらいたかったからなんです。

上述のように、
私は、現実生活で散々な目に合っていて
特にその頃、自分が死ぬんじゃないかなって
思っていました。
(実際そのあと殺されかけましたが笑)

その頃はなんとなく予感だけがあって、
だからこそなおさら、私が死んだあとに
ブログを開いたら、まずspitzが好きだったんだな
ってことが
わかるじゃないですか。

まぁ
そんなことをなんとなく
意識していたのか、していなかったのか
わからないですけれど、

とにかく私はそうしたんです。

でね。
まぁ
結局私は今も生きてて良かったね
ってことなんですけど

今年の7月のライブに
マサムネさんの名前を
ぼんやり見ていて、
以前から、正宗さんの「正宗」って
日本刀のイメージがあって
(名刀正宗とかありますよね。)

苗字に「草」という文字も入っているので
草薙剣とイメージかぶるというか。

「草(くさ)」というのは
博多弁で「くさ」という語尾に
係助詞に似た「こそ」の強意に似たニュアンスがあることで
わかるとおり、
もともとは“強い”とか“ものすごい”とかいう意味があって。
(多分、それが植物の草にあてられたのは
 草の繁茂力なのか(←そう言えば小泉八雲がそんなことを書いていた。)
 別に考察が必要ですけど、詳細は割愛いたします。)

「なぎnagi」というのは
Negi だったり、虹nijiとも音が交換するところもあって
実は、「蛇」を表す言葉でもあるので。

だから、草薙剣というのは「大蛇の剣」みたいな意味なんです。
(実はそうなんです。)

なので、八俣の大蛇のお腹から出てきたので
「大蛇の剣」というのは
最もなことで。

前にも述べましたが、
もし、私が八俣の大蛇みたいに殺されたらね
このブログを開いたら、
Spitzの私のライブの感想が出てくるわけでしょ。

なんか
すごく似てるな(笑)とか
思って。

なんだか運命を感じたわけです。

そのこともあって
今回のspitzの感想は
伊奘諾尊と伊奘冉尊が出会う場面の言葉を
引用しました。

誘う、誘われる、場面ですね。

これは実は、
「運命の人」の「投げたボールが向こう岸に届いた」
というのも意識しているわけですが。

前回は大きな会場で
今回はライブハウスで
近くて嬉しかったよって
こともあります。

いろんな意味で
いろんなものをdirectに感じました。


そうやって、
いろんな人の想いが重なり合って
また新しい何かが生まれて、
それが積み重なって
過去や現在、そして未来へ続いていく
ということも書きたかったことのひとつですが、

まぁあとは、
他にもいろんな意味で書いていますが(笑)

その辺りはご想像にお任せいたします。

あとひとつ、
大きなこととして書きたかったのは

この記事の最初の方で述べましたが

“概念”は“概念”を生み、
“モノ”も生み出すということです。

即物的にモノとモノからモノだけが生まれるわけでは
決してないということ。

言葉や、音楽や、絵や、いろんな
美しいものとか、
楽しいという感情、
怒り、恐れ、みたいなものまで全て
必ずモノにも影響を与えるということです。

結局、進化ってそいういうことなんじゃないかな
って私は思います。

新しい何かによって
個体が別の何かに変わることなので。

私がめちゃくちゃ好きな本に鈴木光司さんの
「リング」と「らせん」という本があります。

例の「貞子」が登場する“映画”、ではなく。
“原作”の方ですね。

何故、映画がチープなお化け屋敷ホラー映画になってしまったのかは
わかりませんけど(当時すごくがっかりしました)、
原作はすごく面白いのです。(と私は思う。)

今回読み直していて
また、いろいろ発見しておもしろかったのですが、

その中で
生命体の定義とか、進化についても
少し書かれているところがあって

その言葉の引用(記事末尾に記載↓)にて
今回の記事を締めくくらせていただきたいと思います。
(ネタバレする部分もありますので、未読の方は先に原作を読んでください。)

今回の記事はかなり
説明的な文章になったのは、
いままでの謎解きの解答編の意味も少しあります。

私が思う解答はこんな感じです
ということで。

ここから、いろんなことを
読み取ってください。(笑)


ではでは、
良い年末年始をお過ごしください。

またねー

*  *  *  *  *  *  *  *  

「生物が何故進化するかわかるか」

竜司の問いに、安藤は黙って首を横に振る。
世界広しといえども、この問いに絶対の自信をもって答えられる人間はいない。

だが、竜司は自信をもって言う。

「たとえば、眼だ。解剖学者のおまえにわざわざ説明することもないだろうが、
 人間の眼は恐ろしく複雑なメカニズムを持っている。偶然、皮膚の一部が角膜や瞳孔へと変化し、
 眼球から視神経が脳に延び、見ることになったとは到底考えられない。
 眼というメカニズムができたために、ものが見えるようになったわけではないのだ。
 それ以前に、見たいという意思が生命の内部から浮上してこなければ、ああいった複雑なメカニズムなど
 形成されるはずがない。海の生物が陸に上がったのも、爬虫類が空を飛んだのも、偶然ではない。
 そうしたいという意思があったからだ。こんなことを言うと、大概の学者先生はお笑いになる。
 神秘的な目的論、唾棄すべき思想だと。

 眼のない生物の世界を、おまえは想像できるか。地中を這うミミズにとっては、暗黒の中で
身体に触れてくるものだけが世界の全てだ。海底でゆらめくイソギンチャクやヒトデにしても、
はりついている岩の感触や、海水の流れだけが、世界のすべてだ。そういった生命に、「見る」
などという概念が簡単に生まれると思うか。まるで想像を絶することだ。宇宙の果てが見られない
と同じく、絶対に認識し得ない類のものだ。だが、地球上の生命は、進化の過程のある一点で、
「見る」という概念を手に入れた。陸に上がり、空を飛び、最後には文化を手に入れてきた。
オラウータンはバナナを認識することはできる。だが、文化という概念を認識することは絶対にできない。
 認識しえないにもかかわらず、それを手に入れたいという意思だけがどこからともなくやって来る。
 一体どこから来るのか、おれにもわからない。」     (鈴木光司 著 『らせん』より)

*  *  *  *  *  *





スピッツ / 愛のことば


雲間からこぼれ落ちてく神様達が見える
心の糸が切れるほど 強く抱きしめたなら