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「綺羅星のごとき英雄たち」 桂太郎と児玉源太郎 乃木希典  ―――  その魂の絆と友情 そして使命感 

2020年12月28日 | 魂の人間学
 維新の3傑といえば西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通であるが、西南戦争で西郷は自刃し、木戸も西南戦争の最中に病死してしまう。その後、大久保利通がリーダーとして日本を引っ張る形になったが、西南戦争の翌年、大久保は暗殺されてしまう。
 その後は、伊藤博文や山縣有朋、あるいは、黒田清隆、大山巌らが、リーダーとなっていくが、桂太郎や児玉源太郎は、ある程度、憲政の屋台骨、近代日本の道ができかかった次のリーダーたちだった。
 伊藤や山縣は元勲の役割であったが、日露戦争時の首相は桂太郎になっていたのだ。

 桂太郎と児玉源太郎は、日露戦争の時代には首相と内務大臣、参謀次長・満州軍参謀総長という立場だったが、二人には厚い友情と絆のようなものがあった。まるで、維新後の日本を独立した近代国家の仲間入りをさせるために全身全霊で当たることをお互いに約束してきたかの如くに。
 日露戦争では乃木希典の203高地が正攻法の正面突破作戦を貫き、自らの息子2人を含む約2万人を戦死させていたが、児玉が内務大臣から自ら降格になる形で参謀次長、そして満州軍参謀長になることによって、203高地に赴き、乃木のメンツやプライドを傷つけないように指揮を代わり(実は参謀総長の命令書を懐に携えていったが、それは見せなかったという)、予め移動させておいた大砲を使って、203高地を半日で陥落させている。
 203高地の作戦参謀は味方撃ちなることを避けるために、かえって2万人もの兵を結果的に失ってしまったのだった。乃木も参謀の言うことに異を唱えず律義に守り続けたのだった。
 なお、陸軍の歴史で、自ら降格を了承したのは、児玉だけであったという。日本国の勝利に貢献することを主眼に置き、自らの名誉には無頓着であったのだ。口では言えても現実には、なかなか実行できることではないのだ。
 日本に教官として赴いたメッケルも、児玉の並外れた才能を見抜いており、「日本に児玉将軍がいる限り、日本がロシアに負けることはないだろう」と話していたという。
しかし、児玉は、戦功を誇ることなく、乃木将軍がいなかったら203高地は落ちなかったと、終生、乃木を擁護した。
 陸軍の演習の時も、乃木軍を児玉軍が破っており、戦争については自分の方がうまいことはわかっていたが、乃木の高潔な人格には、児玉は一目おいて尊敬していたようだ。
 最前線で、補給の状況や、財政のことまで頭が回った児玉は、国内の戦勝ムードと勢いに乗って戦争を続けようという中央に対し、「桂の馬鹿が、まだ戦争を続けようとしている」と、絆があるこその、口の悪い発言をして、いったん日本に帰還して状況を説明し、明治天皇にも状況説明をして、戦争を終わりに導いている。
 ただ、元勲の伊藤博文があらかじめ、ルーズベルトと同窓であった金子堅太郎を米国に派遣し、終戦への仲介の労を取ってもらえるようにあらかじめ仕向けた功は非常に大きかったのだが。
 戦争は始めるより、終わらせる方が難しく、指導者は、戦争の終わらせ方まで、ある程度、頭において、戦争を始めなければならない。伊藤にはそれがわかっていたのだ。
 しかし、第2次世界大戦のときは、やむを得なかった面もあったのだろうが、終わらせ方など、全く頭になかったのだ。山本五十六でさえ、開戦に反対していたとはいえ、開戦が決定すると、最初の1年は大いに暴れて見せますが・・と発言していたが、そのあとについては、想像できていなかった。

 話を児玉源太郎と桂太郎のことに戻す。
 桂太郎が、病気で入院していた時には、桂の奥さんが病気で看病できないことがわかっていたので、児玉自ら桂の病室の隣の部屋に寝泊まりして献身的に看病している。こんなこともなかなか点数稼ぎでできることではなく、桂のことを心底心配してこそできることだったのだろうと思う。
 また桂が総理大臣として活躍しながらも桂の正妻が病気がちで、桂の身の回りの世話ができず、桂は総理大臣の激務に加えて身の回りのことまでひとりやらなければならず、精神的な支えも傍にいないこともあって、桂の衰弱が激しいのを見て取ると、当時の花柳界でナンバーワンであったお鯉さんを口説いて桂の愛妾にしている(当時は今の価値観とは違って、愛妾がいることは、社会通念上、問題にはならなかった時代だった)。そして桂は、元気を回復していく。
 このときも、山縣有朋が紹介したことになっているが、児玉が水面下で動いていたのだ。
 児玉は台湾総督も経験し、後藤新平の才能を見い出して後釜にしていた。検疫に力を入れて児玉の助力もあって、皇族の大将に最初に検疫を受けてもらうことで、困難な全員検疫実施という難事業を成し遂げている。コロナ禍の現代にも参考事例になるかもしれない。
  
 しかし、児玉は、日露戦争に勝利し、なんとか条約が締結された翌年の1906年7月23日に急逝してしまう。前日には、後藤が児玉宅を訪れていた。
 脳溢血と言われているが、日露戦争の際に、全集中で頭を使い、全身全霊で事に当たった疲労のためであったようだ。まだ54歳であった。児玉がもっと長生きしていたら、日本の針路は多分大きく変わっただろうが、歴史にイフはないし、児玉には、維新後に日本が先進国の仲間入りを果たす最大の出来事だった日露戦争勝利に大きく貢献する使命と役割りがあったのだろう。

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