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摂理的葛藤の“真実”を読み解くために3  統一教会と清平のルーツ-② (雪風)

2018-06-13 20:27:08 | 摂理的葛藤の“真実”を読み解くために 

3 統一教会と清平のルーツ-

 

雪風コメント

文鮮明師の弟子たちが作り上げた原理講論にはいくつかの法則があり、それを歴史観に応用している。これを近代にも適用しているが、この時代は聖書の時代と違い多くの資料が残されている。その資料をもとに原理講論の歴史観を検証してみると、矛盾していることに気がつく。例えば、第1次世界大戦はキリスト教を迫害した国とキリスト教国家との争いであったと書いてあるが、ドイツとフランスはキリスト教国家であり、トルコは過去東ローマ帝国の一部であって、イスラム教とキリスト教が共存していた国であった。

 

大東亜戦争以前の統一教会前史は、蘇生・長成・完成の三段階発展の法則を適用するためにかなり無理をしているように感じる。それに、前史の基となっているのが当時の信者たちの話だけで、それを証明する資料がない。「統一教会の分裂」では前史を「血統復帰神話」としているが、これが正しい見方のような気がする。それなので、前回と今回の当時の霊的集団の記述は参考程度にとどめてください。

 

3 ペク・ナムジュ(白南柱牧師)とイエス教会(東海岸)

(統一教会の現象学的考察より)

 

同じころ他のキリスト教団も、新しい救世主のために道を開こうとしていた。東岸の元山地方では、元山女子専門学校教授のペク・ナムジュがカリスマ的伝道師として知られていた。この宗教集団についてはあまり知られていないが、ペク・ナムジュが胎内教とイエス教会と呼ばれる教団の創立に関与したことだけははっきりしている。

鉄山のキム女史に会って弟子入りせよという啓示を受けたペク・ナムジュはその啓示に従い、素足で130マイルもの巡礼を敢行したと証言されている(ムン師の妻ハン・ハクジャの母ホン・スンエはキム女史の教団に属していた)。ペク・ナムジュはキム女史に会って、その啓示を信じるようになった。しかしこの二人の宗教家の関係は長続きしなかった。ペク・ナムジュが聖主教の信者たちと口論の果てに袂を分かってしまったからだ。

ペク派の教祖の地位は、メソジスト教会の牧師リー・ヨンドに引き継がれる。ペク・ナムジュがリー・ヨンドを元山に呼びよせた1932年を期して、イエス教会が誕生した。

ペク・ナムジュは宗教儀式としての性行為を行ったと報告されている。この教団のある女性信者は、新しいキリストであるペク氏は、処女に子を授けるとの啓示を受けたという。子供が実際に誕生すると、当然ながら厄介な事態を招いた。それまではもっぱら教義上の問題でキリスト教正統派から咎められていたペク氏は、今度は不審な性行為で糾弾されることになった。キム女史に会うために130マイルもの巡礼をしたというのは、後で起こった醜聞を逃れる手段に過ぎなかったという解釈もできる。

 

http://spfjpn.com/moon/k-j/sc/john/#2-4_1945 2-4. 1945年当時の洗礼ヨハネ型人物より

 

金聖道女史と白南柱牧師の決裂

サタン世界において、女一人で国家を中心として戦ってはなりません。必ず男と二人で、一つとなって共同作戦をすることによって、一つの基盤を成さなければならないのです。白南柱氏がここで金聖道氏と完全に一つになるべきであったのに、そうできませんでした。死のうが生きようが一つになって、相談しながら行くべきであったのに、そうした使命を果たすことができずに分かれてしまいました。

 

聖主教の受難と金聖道女史の他界

すべてのキリスト教会が彼らを迫害し始めました。牧師たちの告発によって、その老いた婦人は投獄され、むごい拷問を受けました。それで釈放後に彼女は死にました。

 

4 リー・ヨンドの神秘主義(東海岸)

金永雲(女性)原理講論のキリスト教に関するところを担当したと言われている

統一神学の著者、アメリカ開拓伝道に向かう。

1915年生まれ

17歳のときから霊体集団の李龍道に師事

『金永雲先生も十七歳のとき、そのかた(李龍道)につき従いながら、恵みを多く受けたそうです。(姜賢実先生の証)』

『昔、よく文鮮明先生が手を振って口ずさまれていた歌なので、音楽に堪能な男性が譜にとって残しました。作者ははっきりしませんが、どうも李龍道牧師ではないかと伝えられています。李龍道牧師は韓国における霊的運動の新興先駆者で、アメリカ伝道をした故金永雲女史が少女時代に師事していたそうです。(聖歌のゆかり2 嘆きを吹きとばせ)』

1942年関西学院大学神学部卒業

元梨花女子大教授、1955年大学は異端の信仰をやめないことを理由に、崔元福(チェ・ウォンボク)・金永雲(キム・ヨンウン)・梁允永ら5名の教授・助教授や14名の学生免職.退学処分とする。

1975年 ベリータウン神学校の組織神学の教授となる。

ちゃぬの裏韓国日記、統一神学、統一教会史より

 

(統一教会の現象学的考察より)

リー・ヨンドがとりわけ重きをおかれるのは、結核を患って、キリストが十字架に架けられた年齢と同じ33歳で死亡したとされるからだ。朝鮮では、神秘主義者かつ信仰復興論者の牧師として有名で、朝鮮半島全土を伝道してまわった。彼は最晩年に異端として告発されるまでは、キリスト教主流の諸派から説教を依頼されていた。あるキリスト教主流派の信徒の情報によると、リー・ヨンドの礼拝集会では、信者が裸になって儀式を行い、ムン・ソンミョンも常時その集会に参加していたという。しかしその理由は後で述べるが、この証言はどうも疑わしい。

 

リー・ヨンドはたえず身体の不調に苦しみ、25歳で重い肺疾患に冒された。友人の故郷で養生していたとき、村人に教会で説教をしてくれと招かれた。ところがいざ説教する段になると言葉につまり、ただ涙をこぼすばかり。心を揺さぶられた会衆も涙を流す。リー・ヨンドは、神との神秘的な関係を体験したが、その体験は言葉では要約できないと悟った。彼自身「語るな、これが私のモットーだ」と言ったように。神秘的な関係とは、合一としか表現できないもの、あるいは花婿にたいする花嫁の性欲の象徴に使われる性的イメージとでも表されるようなものだ。

しかし、リー・ヨンドはその後神との神秘的な関係を表す新しい陰喩、すなわち「主との血の混合」という隠喩を発展させ、自身を苦悩するキリストになぞらえた。

 

リー・ヨンドは自分とイエスをあからさまに同一視した結果、キリスト教主流の非難を招くことになった。あまりの攻撃に、彼はやむなく自分の教団を創始するしかなくなった。その教団成立の陰には、別の新キリスト教集団を率いていた神秘主義者ファン・ククジュ     (黄國柱)の協力があった。

キリスト教主流派の歴史学者ミン・キョンベによると、この教主(黄國柱)はイエスに似せようと髪やひげを伸ばし、自分の頭は切り落とされイエスの頭と交換されたのだと主張したという。「私の頭はイエスの頭、私の血はイエスの血、私の心臓はイエスの心臓……私は完全にイエス・キリストに変身した」ファン・ククジュは宗教によるトランス状態は性的恍惚感と同じようなものだと主張した。

 

ミン(キリスト教主流派の歴史学者ミン・キョンベ)はこう評する。ファン・ククジュは三角山に祈祷院を建て、教義や礼拝式に首と血の交換を説いた。これらの交換の過程は霊体交換の実現と呼ばれたが、実態は姦淫だった。ちなみに主流派のキリスト教徒であるミン(キリスト教主流派の歴史学者ミン・キョンベ)には、儀式化された性の実践と乱交の区別がつきにくくなっていることを注意しておきたい。

 

リー・ヨンドはこれら新キリスト教の神秘主義者たちがイエス教会を興したとき、協力はしたものの、抗議するする姿勢は崩さなかった。(イエス教会の設立には消極的だった)

 

本項に述べたとおり、ペク・ナムジュとリー・ヨンドの宗教集団は実質的には同じものだが、統一教会はそれぞれを別の教団として扱っている。二教団を別個に扱わなければ、統一教会が発展させたがっている神学史のうえで、統一教会の立場が裏付けられないからだ。ムン師によれば、リー・ヨンドのイエス教会(リー・ヨンドが創設したイエス教会)が胎内教と統合するのは神の意志であり、天使長がイブのもとへ行ったことを再演する意味があった。しかしこれは実現しなかった。「……この二教団が統一されなかったため、神は新しい運動を興し、新たな場所を開拓しなければならなくなった」

リー・ヨンドが1932年に病没すると、その魂はイスラエル修道院を興したキム・べクムン(金百文)に乗り移ったとムン・ソンミョンは語る。

 

5 イスラエル修道院

イスラエル修道院は、名称こそ「清水教」と変更されているが(1993年時点)今でもソウルに近い韓国の西海岸に存在している。キム・ペクムンは、のちに統一教会が奉ずることになる堕落論と同じ考えを説いた。つまり堕落はルシファーとイブの性行為の結果であり、血を清めることで復帰が達成できるとした。

キム・ベクムンには「聖神神学」(1954年)と「キリスト教根本原理」(1958年)の2冊の著作がある。後者は三年余におよぶ講義をまとめたものだ。ムン・ソンミョンの「原理原本」はキム・ペクムンの著作の盗用だと言われている。それに対して統一教会側は、キム・ペクムンのほうがムン・ソンミョンの思想の内容について啓示を受けたのだと主張したものの、具体的な対応はしなかった。

ムン・ソンミョンが「原理原本」を1952年に完成し、キム・ペクムンの著作の出版が統一教会創立以後だという事実からすると盗用の告発は度外視してよいだろう。しかしながら、ムン・ソンミョンが1945年から1946年までのあいだ、イスラエル修道院の信者だったことは事実で、二人は密接な関係にあったため、類似性が指摘されるのも当然だ。ムン・ソンミョンは地方に隠遁の地を求めて移転したイスラエル修道院の平壌支部を任されることになった。

 

光海教会と訳されるクァンハエ教会は、イスラエル修道院の同支部のことだった。クァンハエを光海と訳すのは誤解に基ずくものらしい。この教会には正式な名称はなかった。教会の建物もなく、信者たちが野外で集会を持ったため“荒野”を意味するクァンヤという言葉が使われていただけだと思われる。

イスラエル修道院内で、ムン・ソンミョンはもっと高い地位が与えられると期待したらしい。キム・ペクムンは洗礼ヨハネの「位置」に立って、彼が救世主であると証言することもできた。しかしキム・ペクムンは証人とはならず、ちょうど洗礼ヨハネがイエスに背き、その救世主としての使命を疑ったように、イスラエル修道院はムン師に厳しい態度をとった。そのためムン・ソンミョンはイスラエル修道院にとどまることができなかった。

 

 

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