師観のブログさんが「原罪」の問題を取り上げておられました。
原罪について(人類の救済の為にどんな貢献をしたかが神においてはもっと大切なこと)
「原罪」とは何?
「原罪」の問題は、HOPE子も、いろいろ検討していますが、師観さんのブログ記事を読んで、概ね同調する次第です。
お母様の「独生女」論が,大きな論議を呼んでいますが、「原罪」とは、何か?という問題を明確にしなければ、この論議は平行線をたどるだけで、「お父様には原罪があった?無かった?・・・・・・・おうてきに」「お母様には原罪があった?、無かった?」と言い争のもととなることだけです。
正直、原理講論を読んでも、「原罪」とは何か?ということに関して、明確には述べていません。アダムとエバが犯した最初の罪、血統的犯罪行為、ということなのだが、その概念は極めて観念的な概念と言わざるをえません。通常「罪」というのは、どういう意味なのでしょうか?キリスト教でいう「罪」の概念は師観さんのブログでもアウグスティヌスのころに確立したとありましたが、あくまでも神学的な概念と言って行っていいでしょう。
「原罪」が血統的に遺伝されるものなのかどうか?科学的な概念との整合性がどこにあるのかなど不明な点が多い。
どうもHOPE子などは神学論争には疎いのでこの辺りはよくわからない。現実的に考えると、どう考えればいいのか迷ってしまう。
「原罪」とはきわめて観念的な概念
現実的に考えれば、「原罪」ということは極めて観念的な観点なので、実際「原罪」があるのかないのか、科学的にリトマス試験紙みたいに明確に識別できるものが無いのだから、「原罪」あるなしの論議は結論が出ない。
師観さんが、最後のまとめで
したがって、大切なことは無原罪であろうが無かろうが、現実の実態生活において、
1.神と正しい関係をたもち、
2.人間と人間との正しい関係をたもち、
3.人間と宇宙自然界との正しい関係をたもっていることが最も重要なことなのです。
ちなみに、イエスは放蕩息子の話を通して、自分には罪が無いのだと言っている人よりも、たとえ罪を犯してもそれに気がついて、心から悔い改めて神のもとに帰って来る人を親なる神は無条件で受け入れることを説いているのです。
と書いているのが極めて現実的な理解となるのかと思う。
師観さんは最後に
それゆえに、イエスの神観は日韓併合で韓国がソ連や中国に共産化されずに済んだことを忘れて、日本に1000年の恨みを置くとか、誰かさんのように、日本のUC信徒に日韓併合の蕩減を負わせ、何時果てることも知らない献金奴隷制度を制定したりすることを説いてはいないのです。
と書いている。
HOPE子はさらに、
原罪のあるなしの論議よりも、具体的に現代、そして今後生きる人類が広い意味でも、狭い意味でも「罪」とかかわりのない人生を歩み、この世界が「罪、あるいは犯罪行為」のない世界を実現する。そのことが重要だと思う。そのようになれば、いかなる罪が過去にあろうとも神様はそれらの罪をお許しになるであろう。そう思う。
そのことのためには我々がまず善の生活にいそしみ、すなわち我々の傍にいる隣人を慈しみ愛し、いかなる隣人にも憎しみや恨みを抱かない生活をすることであろう。
師観さんが言うように「自分には罪がない」と言いながら、隣人や隣国に恨みを抱き、自らに従わないものはすべて抹殺したり排除したりしていては、それこそ罪を重ねる以外のなにものでもない。
恩讐を愛し、敵を愛し、自らを怨むものさえ赦されたのがイエスの愛であり、再臨主の愛であり、歴史上の聖人や義人の歩みであったことを思い起こすべきであろう。
真のお父様の精神的伝統
お父様の精神的伝統は神様と人類を愛することに徹底されていた。恩讐や敵をも愛して共に生きる家族のように接して来られたのがお父様の生涯の歩みであった。本来家庭連合はそのような生き様を継承する家族(祝福家庭)の集合体であった。
お父様にしろお母様にしろ、だれかを神格化して、その語られた言葉を絶対視して、そこに絶対忠実にあることを強制するようなものではありえない。真お父様はそのようなことは決して要求されなかった。最後は組織はいらないとも言われていたのである。
組織的命令に絶対従属を誓わせるのは、本来お父様が創立された「家庭連合」の精神とは著しく異なり、むしろ明らかに逆行するものでしかない。
「統一教会」(家庭連合)に本来必要なのは、「人格であり、宗教的な行動と生活」なのである。
「原理講論」