かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

追加版 渡辺松男の一首鑑賞 199

2015年03月15日 | 短歌一首鑑賞

追加版渡辺松男研究24(2015年2月)【単独者】『寒気氾濫』(1997年)84頁
   参加者:かまくらうてな、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:崎尾 廣子
          司会と記録:鹿取 未放

      ◆(まとめ)部分を追加しました。

199 俺はいわゆる木ではないぞと言い張れる一本があり森がざわめく
    
      (レポート)
 森には個性豊かな木々が立っており森閑としている。しかし一本の木が森に波風を立てている。「俺」は目(もく)ではあるが連(れん)ではないと言っているようだ。ユーモラスな木であると思う。しかし余り意味のない意見を述べその場にいる人々を苛立たせる一人の人を浮き彫りにしているようだ。結句に妙味を感じる。(崎尾)

    
      (意見)
★この辺りからこの一連の解釈には単独者を意識しないといけないと気がついた。この一本は単独
 者なんですね。(崎尾)
★「目(もく)ではあるが連(れん)ではない」ってどういうことですか?(鈴木)
★これは家族の族と属する属が似ているということで、属を連と読む読み方が辞書にあったので。
 何々属……とかありますが何々連というのは下の方なんですね。目の方が大きい。(崎尾)
★心を持った人間のような木だと思っているんじゃない。「森がざわめく」は、俺たちだって同じ
 だよと他の木たちが思っているんじゃない。(曽我)
★要するにこの木は突っ張っているんですね。突っ張ることで注目されたいみたいな。(うてな)
★単独者の自負ですね。全体として見え方が違っているのかなと。普通の見え方だと森がざわめい
 ている中に一本の木が立っていると。ところがここは一本の木が立っていて森がざわめいている。
 単独者から見た見方なわけで、それが面白いなと。(鈴木)


      (後日意見)
 『キリスト教の修練』でキリスト教界の虚偽と欺瞞を暴露したキルケゴールは、デンマーク国教会を敵にまわしてしまった。「俺はいわゆる木ではないぞ」はこの孤高なる言説のことで、単独者たるキルケゴールの矜持を表現している。国教会批判の彼の新しい言説は、それまで集団の中で安寧を得ていた教会の群衆=森の不安な声となって「ざわめき」を起こさせたのである。(石井)


           ◆(まとめ)
 動植物の分類の用語は「界・門・綱・目・科・属・種」の順です。学問の世界の決まった用語を個人が勝手に「属」を「連」に変えるなどということは許されません。楡に当てはめると「植物界被子植物門双子葉植物綱バラ目ニレ科ニレ属」(この歌の大楡の種は特定できません)となります。レポーターの「『俺』は目(もく)ではあるが連(れん)ではない」に従って仮に当てはめてみても「俺はバラではあるがニレではない」と楡の木が言うことになるのでとても変です。「俺はいわゆる木ではないぞ」というのは、もっと本質的なことを指しているのでしょう。(鹿取)


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