かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠96(スペイン)

2018年10月09日 | 短歌一首鑑賞
馬場あき子の外国詠11(2008年9月)
   【西班牙3オリーブ】『青い夜のことば』(1999年刊)P58~
   参加者:F・I、N・I、T・K、N・S、崎尾廣子、T・S、
       藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子 まとめ:鹿取未放


96 ユーカリの鬱たる汚れの辺に群れて葦は考へるちから捨てたり

     (レポート)
 アンダルシアなどスペイン南部大規模農園は非効率的農業の象徴であったが、近代農業へ移行されている。しかし保守的気質、資本投入不足、乾燥した荒々しい気候の影響などの諸条件で、その生産性はヨーロッパ基準からすれば低レベルである。それゆえかつて華やかだった時代の活気は見るべくもないであろう。そういう状態を「ユーカリの鬱たる汚れ」に託していよう。そして「辺に群れて葦は考へるちから捨てたり」と続くのだが、「葦」とはパスカルの言う人間だ。その人間へ前述の状況下で個人としての輝きを失い「群れて」「考へるちから捨てたり」と作者の見解を示している。しかし旅先の人々を「葦」に託し、寓言めいた表現をしているのは一旅行者としてあからさまな言挙げをつつしんだのであろう。(慧子)


         (当日発言)
★下の句は字義通りではないか。(崎尾)
 
      (まとめ)
 レポーターのように葦を人間ととると、土地の農民たちが、収穫も思うようにならない汚れたユーカリの木の辺りに無気力に群れているということか。作者独特の「ちから」の語を用いているが、ここではそれが発揮できない状況で、為す術もない人々をうたっているのだろうか。なんだか土地の人を蔑しているようで、あまりしっくりしない。また、こういう解釈をすると直前の歌〈アンダルシアのユーカリは汚れし手を垂れて泣けてくるやうなやさしさにじます〉のやさしさ、3首前の歌〈乾大地赫ければ半裸かがやかせオリーブ植うる南へ南へ〉の逞しさなど一連の中で見るとき、どうもこの歌だけが異質な感じになる。では葦を植物ととると、葦はふつう湿地に生えるものなので乾燥地のユーカリの木の周りに生えていたかどうか気になるところだ。実景ととるならユーカリの周りに群生している葦たちも力なく萎れきっているというのだろう。(鹿取)