かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

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馬場あき子の外国詠78(スペイン)改訂版

2015年10月22日 | 短歌一首鑑賞
  馬場あき子の外国詠9(2008年6月)
      【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P53
       参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:藤本満須子
      まとめ:鹿取未放


78 西班牙より見ればヤジローとザビエルの対座の秋の無月邃(ふか)しも

       (レポート)
 76の歌でも「秋」とうたっている。この時期、日本より少し気温は低いスペイン、マドリッドであろうが、乾燥し、湿度の低いこの地の青空の深さを「秋」とうたわずにはいられなかった作者である。青い空、深い青空は高知の秋の空を思い浮かべるのだが。下の句に作者の深い感慨が込められている歌と思う。
 ザビエルとヤジロー、互いに孤独な二人が対座している。キリスト者としてのザビエルの生き方に強く惹かれ、罪人として逃亡していたヤジローは受洗し、ザビエルを案内して日本に帰るというのである。日本は安土桃山時代、小田信長が天下を取ろうとしていた頃である。(鹿児島藩、琉球、奄美、黒糖専売、密貿易、江戸時代を通じてほとんど一揆がなかった。)結句の「無月」とは?白い月が浮かんでいる天空の様子だろうか。(藤本)


         (発言)
★ふたりが対座した当時のことをうたっているので、作者が旅行した季節を「秋」ととらえてい
 るわけではないでしょう。「無月」は、「空が曇って月が見えないこと」と漢和辞典に出てい
 ます。(鹿取)
★ヤジローとザビエルの対峙を扱ったすごさ。(T・H)


        (まとめ)
 東洋の一犯罪者であるヤジローとキリスト教国の最高の知性であり情熱を秘めた神父との魂と魂のぶつかり合い、あるいは魂同士の寄り添うさまを扱って、まことに奥深い味わいのある歌である。
 スペインに旅することで、16世紀というはるか昔にこの地を発って地の果てのような日本に布教活動に出向いた一宣教師のことが作者にはしきりに思われているのである。日本に上陸したザビエルのある秋の無月の夜の対座の様をありありと想像している。無月は特に中秋の名月に月が見えないことをいうが、ふたりが上陸したのは1549年8月15日、正に中秋の名月その日であった。(しかし天候悪く彼らの上に名月が輝くことはなかったのかどうか、私には調べきれなかった。何かの本に無月の記述があるのかもしれないし、作者の想像の中で無月であったのかもしれない。)月が無い深いふかい闇の中で二人はいのちがけの真剣勝負の鋭い議論を交わしたのであろうか。あるいは言葉の壁に阻まれて深遠な議論を闘わすことは不可能だったろうか。その場合はそれぞれがそれぞれの思いを抱えて言葉少なに向かい合っていたのだろうか。西洋人と東洋人、宣教師と罪人という異色の組み合わせながら、「対座」という言葉には相手を包み込むような優しさも感じられる。犯罪者であるヤジローを神に導き、対等にむかいあっているザビエルの人間としての大きさが詠み込まれているようだ。また、そう読むことによって馬場あき子の人間への愛の大きさも思わせられる。(鹿取)


        (後日意見)(2015年10月)
 新村洋『天文十八年』によると、ヤジローは、マラッカでザビエルに会い、1546年、その後を慕ってインドのゴアに渡った。ゴアでは聖信学院に通い、アジア13カ国から来た60名くらいの生徒に混じってポルトガル語とキリスト教を学んだという。その後1549年、ヤジローはザビエルに従って通訳として日本にやってきた。だから、上記(まとめ)とは違って、ヤジローは教義内容に立ち入って議論できるくらいの語学力は身につけていたはずである。しかし、馬場のこの歌は「無月」や「邃し」の語感からおしてあまり言葉を交わさずに向かい合っている静謐なイメージをおこさせる。ここではやはり言葉のない深さを味わうべきなのだろう。(鹿取)
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