かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 413 中欧 413

2022-07-26 10:38:11 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠57(2012年10月実施)
    【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
      参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:崎尾 廣子 司会と記録:鹿取 未放

 
413 幽閉されたき窓一つあり何の木か黄葉をきはめ実を結びをり

        (レポート抄)
 目線を少しあげたところに見える小さな窓なのであろう。日常のわずらわしさから解放され孤になりたいと思っているであろう作者の心のうちが涼しげに伝わってくる。O-Henryの「最後の一葉」を連想する窓の存在。(崎尾)


        (当日発言抄)
★オーヘンリーの「最後の一葉」ってどんな小説ですか?(鹿取)
★女の子が窓から木を見ていて、あの木に葉っぱが付いている間は私の命もあると思って
 いる、そんなお話ですよね。(慧子)
★その最後の葉っぱが落ちて、画家が少女のために葉っぱを描いてやる。画家は死ぬけど、
 少女は絵を見て元気を取り戻すという短編。(崎尾)
★この窓を作者はどこから見ているんだろう?(鈴木)
★外の道から見ていると思ったけど。目線を少しあげたところに木がある。(崎尾)
★「実を結びをり」のところは窓の内側から見ている感じがする。(鈴木)
★写実で言うと、窓に枝一本が掛かっているとでも歌ってくれたらイメージしやすいのに。
   (慧子)
★ここは大聖堂の内側から小さな窓を見て歌っているのではないか。その外に実のなった枝
 がある。外からでは下の句が活きてこない。(藤本)
★「幽閉されたき窓」だから、この窓は低いところにはないだろう。作者は外にいて、高い
 所に窓る塔か何かを眺めている。木の葉も実も下からずっと続いていて、実がなっている
 のも分かるのかもしれない。(鹿取)
★下から続いていたら何の木かは分かるのでは。(鈴木)
★異国の木で名前を知らないということも考えられますね。次の歌(羊のやうに群れて歩め
 る小さき影カラードにして金持われら)は外に出ています。事実は分からないが、中にい
 たら窓一つとは言わないのじゃないか。外から眺めて、幽閉されたいような感じを持っ
 た。(鹿取)
★「幽閉されたき」という言葉が大事。(鈴木)
★しかし幽閉されたいとは不思議な感覚ですよね。普通は脱出したいとは思っても、あまり
 幽閉されたいとは思わないだろうけど。(鹿取)
★舞台のような感覚なんじゃないですか。(曽我)


          (後日意見)
 この歌はオー・ヘンリーの「最後の一葉」との関わりは薄いようだ。葉は黄葉し、実さえ結んでいるのだから。しかし、オー・ヘンリーは横領のかどで服役していたことがあるそうなので、「幽閉」とは関わって面白い。もっとも彼は模範囚で、外出許可さえ出ていたそうだ。(鹿取)


          
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馬場あき子の外国詠 57 中欧 412

2022-07-25 13:50:17 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠57(2012年10月実施)
    【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
      参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:崎尾 廣子 司会と記録:鹿取 未放

 
412 彫像に見られゐるわれは小さなる一瞬に過ぎず無視して通る

     (当日発言)
★彫像は半永久的である。露わではないが人間とのかすかな対比。(慧子)
★共感しないから無視して通るのでもないし、共感もしていますね。(鹿取)
★彫像がどこのものか特定されていないのはまあいいとして、歌のつくりがおおざっぱな気
 がする。「小さなる一瞬」というのはどこに掛かるのだろうか。(藤本)
★「小さなる一瞬」が掛かる部分はないが、自分が通り過ぎる時間のことを言っているので
 しょう。彫像を無視して自分が通る、その一瞬。(鹿取)
★自分の存在自体の小ささと、観光が一瞬に過ぎ去っていくことを言っている。(鈴木)
★作者の歌の特徴で、命のないもの、人間ではないものが自分を見ているというのがある
 が、これもその一つ。ほかの人でも彫像が自分を見ているとうたうことがあるかもしれ
 ないが、作者は「無視して通る」と自意識をたてているところが面白い。私は一瞬の観
 光者にすぎず、だから彫像と対峙することもないから無視して通っていくだけだと。
   (鹿取)
★雑な歌い方のようにみえるが、両方を振り切っていて面白い。彫像の視線と、そこを通る
 ときに作者によぎった自分は小さな一瞬の存在だという思いと、両方を振り切っている。
   (鈴木)

          
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馬場あき子の外国詠 57 中欧 411

2022-07-23 12:08:08 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠57(2012年10月実施)
    【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
      参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:崎尾 廣子 司会と記録:鹿取 未放

 
411 天井までキリストをめぐる細密画隙なしこれほどの圧倒もある

     (当日発言)
★この細密画はどこにあるのでしょうか。どの部屋か、どこの部分の細密画か特定できなく
 てもいいが、下からずっと描かれていて天井まで及んでいるのでしょう。(鹿取)
★作者は息苦しさを感じたのではないか。それとここにとけ込めない感じ。ここまでやるの
 かという。日本人ならここまではやらないという怖さみたいな気分。(鈴木)
★でも日本だってお寺に行けば恐ろしいような地獄絵があるし。大聖堂とお寺では建て方も
 違うが。(藤本)
★まあ、東西を比べてではないかもしれないけど、東洋では余白ということを大事にしま
 すよね。だから鈴木さんの息苦しさというのはよく分かる。(鹿取)   
          
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馬場あき子の外国詠 57 中欧 410

2022-07-22 10:23:00 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠57(2012年10月実施)
    【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
      参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:崎尾 廣子 司会と記録:鹿取 未放

 
410 聖堂の薔薇窓にさす朝の陽のいつかしき暗き光を見たり

     (レポート抄)
 陰を意識することで光はより輝いて目に映ったのであろう。キリストを太陽になぞらえて造ったとも、奇(くす)しきバラの花とも言われる薔薇窓の精巧さに、光の美しさに心を打たれているのであろう。(崎尾)


      (当日発言抄)
★「いつかしき暗き光」の言葉につきるのかな。実感として分かる。(鈴木)
★この窓は19世紀作、直径は11メートルで世界最大、2万6千枚以上のガラスを使用。
   (藤本)
★聖ビート大聖堂の正面を飾るバラ窓は「天地創造」がテーマ。高さは33mで、柱と天井
 が一体となって美しい星型を作りあげているそうだ。これは塔の中に入って見ているので
 しょうね。ところで、ステンドグラスと薔薇窓は違うものだけど、この薔薇窓には実際の
 太陽光がさしている。そうすると409番歌(ステンドグラスの絵図にとこしへに苦しめ
 る人ありそこに光とどかず)の苦しめる人に届かない光と同じ太陽光かもしれない。もち
 ろんどちらも表の意味は太陽光で、裏に比喩的な「光」を暗示していると重ねているのだ
 ろう。(鹿取)
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馬場あき子の外国詠 57 中欧 409

2022-07-21 12:01:15 | 短歌の鑑賞

       ミュシャ作ビート聖堂のステンドグラス(撮影 石井彩子)    

  馬場あき子の外国詠57(2012年10月実施)
    【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
      参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:崎尾 廣子 司会と記録:鹿取 未放

 
409 ステンドグラスの絵図にとこしへに苦しめる人ありそこに光とどかず

    (レポート抄)
 王家の「洗礼」を主題としたものであるこのステンドグラスの制作者への、キリスト教への深い理解が作者にはあるのであろう。光の届かない人々へも思いは及んでいるのであろう。(崎尾)


    (当日発言)
★この歌は402番(ステンドグラスの絵図に悲しみの祈りあれどミュシャの光をわれは見
 てゐる)と2句までが同じ。402番歌はミュシャに光を当てているが、この歌では絵図
 に描かれた人に焦点がある。「とこしへに苦しめる人」は絵そのものが題材。(藤本)
★光が当たらない部分が実際にあるのだろう。だから先生はそこに描かれている人はとこし
 えに苦しめる人だと思った。(慧子)
★そうすると光が届いている人は苦しんでいない人ということになるが、そうですか?「光
 とどかず」の部分の解釈にレポーターは苦しまれたと話されましたが、そこは物理的に光
 が届かない部分があるという意味ではないですか。(鹿取)
★光とはステンドグラスで強調したい所。もともと強調したい救世主などにスポットライト
 を当てる技法。制作者が強調していない部分が「光とどかず」で、作者はそこに苦しんで
 いる人がいることを発見したんじゃないか。英雄など讃えられる人の影としてある人が、
 確実にいて苦しんでいることを発見したんじゃないか。制作者が浮かび上がらせることを
 意図したのではなく、制作者が気がつかなかったことを作者が発見したのだ。(鈴木)
★鈴木さんの意見、面白いですね。(鹿取)
★いや、みなさんの解釈のように歌からどんどん離れていくのはよくない。ステンドグラス
 はまんべんなく光が当たるように設計されている。時間によってあたらない時もあるかも
 しれないが。この絵にはチェコに初めてキリスト教を伝えた聖キリルと聖メトディウスが
 描かれていて、物理的には光は当たっている。しかし聖人といわれるこの人たちは永遠に
 苦しんでいるので、その点を光が届いていないと表現している。(藤本)
★そうすると藤本さんの意見は、「光とどかず」の光は太陽光ではないということね。
   (鹿取)
★藤本さんの説には反対。あくまで現場詠だから、そのとき光が当たっている所と当たって
 いない所があったのだと思う。(鈴木)
★意見が分かれましたが、並列で表記しておきます。(鹿取)


     (後日意見)(2015年9月)
 「ステンドグラスはまんべんなく光が当たるように設計されている」という意見があったが、普通のガラス戸だって外からの光はまんべんなく当たる。また「制作者が強調していない部分が『光とどかず』」だという意見もあった。ミュシャのステンドグラスの写真には例えば右下の暗い部分には頭を抱えて嘆いている人の姿が描かれている。その人物を眺めていると、ミュシャが英雄だけにスポットライトを当てて浮き上がらせ、重要でない人は隅の方に暗く描いているとは思えない。ミュシャは暗く描いた人の苦しみにも聖人と同等の精神性を認めているようだ。だから、藤本さんの意見のように聖人だけが苦しんでいるとは思わない。また、鈴木さんの「制作者が浮かび上がらせることを意図したのではなく、制作者が気がつかなかったことを作者が発見したのだ」という意見に賛成したが、今はどうもそうではないように思われる。ミュシャは隅々まで入念な意図の元にステンドグラスを作ったし、作者はそれに導かれて隅に暗く描かれた名もない人の苦悩にも心打たれたのだろう。制作者の力でもあるし、鑑賞者の力でもある。(鹿取)
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