ふらいすたーげ

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国立西洋美術館とギリシャ展

2011-07-09 21:22:00 | イベント
ギリシャ展展観に行ってきました。さすが国立、すごい美術館です。広大で恵まれた敷地に常設がすでに地方の美術館の企画展を合体させたような常設で、驚きでした。

意外に勧めたいのは高校生、とくにいま世界史の期末を終えた高校2年生かも。というのもギリシャ展で古代ローマの学習とギリシャの本物「資料集」、そして常設に行けば中世末期コシックにギリ入り、キリスト教美術から、ルネサンス芸術へと徐々に人間の美しさ、自然情念を肯定的に描くようになり、ロマン主義からわれわれの世界へという「世界史」がまさに概観できる展示になっている。

常設がすでにそういうコンセプトっぽいのに、そこに古代ギリシャが加わってしまったから、「目で見る詳説世界史B資料集」状態。

野球にたとえるとオールスターを9回裏まで見届けたような美術館でした。偉大なる人間の創造力の前で、自分の体も元気になりました。

ギリシア展は「円盤」が売りのようでしたが(もちろん360度からゆっくり観察でき言葉にならない迫力がありました)、私は憧れのアフロディテ(ビーナス)目的に一直線。

なんという・・・エ○いとか言ってはいけないけど、美しい。高校生のときに一目ぼれしているから危なかった。文字通りの偶像崇拝に陥いる危険がある。本物彫刻を見ていると、偶像崇拝の禁止も少し実感できた。「本当に生きているような」像がしかも人間美を目的として創造されていると、「それだけの価値があるからこそ」危険ということになる。
あくまで私の場合ですが、もしもの話、あんなものが家や近所にあったらさわって、抱きついて、崇拝はしなくともまるで神のように大事にするだろう。野蛮に言ってしまうとダッチワイフ状態だ。だから破壊しなければならない。
ニーチェがパウロはギリシャ芸術を偶像と即断し、何も偉大さを見出していないと確か批判していた気がするが、それはパウロ一個人の論になったとしてもキリスト教批判にはならないでしょう。基本的に偶像対象は限界的(ヤスパース)な存在。ギリシャ彫刻が人間(美)の可能性を追求した限界を理解・体験してもなお「つくられたもの」にとどまるという限界状況でこそ偶像を拒否すべきというところまでパウロは美術感性はどうであれ見抜いていたと思ってます。だからこそ信仰の領域を侵食しようほど近づいてしまったら徹底的に破壊する。

アクセサリー・小物も2000年前のものが生で見れて驚きました。
輝き衰えぬ金の装飾品は美しい。重装歩兵の兜と鎧も生々しかったです。

でもそれに匹敵するくらい素晴らしい常設でした。教科書に出てくる有名人はもちろん、しらない画家でもそれぞれがお気に入りを見つけられる殊玉の作品の数々でしょう。


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