【ダンボールの部屋】 いつも輝いて煌めいていましょう!

ダンボールの部屋へようこそ!!! ここはWEBの聖地だ ヽ(^0^)ノ

【霊告月記】第二十八回 和田氏投稿論文「橋川文三の回顧」

2018年02月01日 10時00分00秒 | 霊告月記26~30

 【霊告月記】第二十八回 和田氏投稿論文「橋川文三の回顧」

和田氏が2年前の 2016年 2月23日(火)に【橋川文三談話室】に投稿された論文「橋川文三の回顧」(http://9307.teacup.com/shikon/bbs/33)は、目立たない場所に隠れていますので、ブログ主としての判断によりここに再掲します。再掲する理由は「血縁的差別を伴う超国家主義は現在の危険ではないか」という和田さんの主張に、感嘆すべき明晰性・原理性を感じ取ったからに他なりません。

2年前読んだ時は、私の教養不足のせいで、和田さんが何を仰っているのやら意味不明、さっぱりわからないという印象しかなかったのですが(→若干の誇張あり)、その後少しは私も成長しまして(→若干の謙譲あり)、今に至って和田さんの問題提起が極めて重要であるとの認識が徐々に増してきました(→正直な言明)。

現時点では和田さんの問題提起に応えるだけの思想的内実を私はまだ獲得しておりません。従ってここに再掲するだけにとどめますが、見識ある諸兄がこの論文を読み、和田氏の問題提起を受け止められ各自の思想的営為を深められんことを期待して、前置きの言葉とさせて頂きます。

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

   橋川文三の回顧
   ~血縁的差別を伴う超国家主義は現在の危険ではないか~
                   和田

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

私は19歳、とある大学法学部に入学(1969年)後最初に超国家主義の本を探した。私はベートーベンを愛する近代主義指向の持ち主で、家庭で苦しめられた血縁的思考を憎み血縁的差別は天皇主義に関係しているに違いないと思った。橋川の超国家主義の諸相を手頃な入門書と考えた。朝日平吾と磯部浅一の手記には殺意を催ながら読んだ。橋川の朝日、「死の叫び声」の「真正の日本人」を「真正の人間」と読み替え可能との説に著者は超国家主義者にある観点から暖かい眼差しを注いでいると感じた。「天皇の赤子」など血縁擬制的な朝日の記述から朝日は日本人なるものにこだわっていることが明白であるのに橋川は血縁的なものを普遍的なものに置き換えようとしていると思ったのだ。 橋川がもと、日本浪漫派のシンパであったこと、それは橋川が日本浪漫派に血縁的なものを見いださず、普遍的な感覚から引き付けられたことを後に発見する。 明の王陽明は反乱民に「朝廷の赤子」と呼びかけ懐柔している。 天皇の赤子は朝廷の赤子の転用であろう、朝廷の赤子は天皇赤子論よりは、天皇機関説に近いと思ったのは最近のことになる。 橋川超国家主義論を読んだ直後、東大の殷研究学者松丸道雄氏の「多子」甲骨文字から殷代統治イデオロギーとしての血縁擬制と祭祀を知り、守本順一郎のアジアイデオロギーの血縁的差別と血縁的包摂論に出会う。1年だけ広松渉の哲学講義も受けた。 その後20年程政治思想史では、守本順一郎、弟子の岩間一雄、自然と作為の丸山真男、マックスウェーバーの宗教論、考古学とシャーマニズム、レヴィ・ストロースの構造主義などを読んだ。大学時代には資本論なども読んだことがある。 20数年前から右翼の生態を知るために橋川文三の他の著作をも読むようになった。  私は多神教を血縁差別的なもの、科学非適応なものとして嫌う。模倣呪術を似而非法則の意識的適用であり、錬金術・実験という媒介を経て科学に転化しうるもの、またその態度は自然を異なるものとして向き合う異化であるとして評価する。 それに対して他界・魂・祖先神などの超越的存在から条件付きで何らかの恩寵(他民族生贄や自民族自己犠牲を含む)がもたらされるとの前提(共同主観)を象徴的な定形行為により確認等をする祭祀行為を自然に平伏する同化行為で神智主義・神話の源泉として否定する。    このような人物(私)が橋川文三を読めば、超国家主義の諸相は伝わるが氏の分析概念に俯瞰的・客観的な媒介概念が乏しいことから象をなでる群盲を見るかの不足感を感じる。  しかし、橋川文三の論考を包摂できない限り超国家主義の再来に対抗できないこと、系譜的伝統の危うさにあまり触れず全体に個を委ねる「一体性」に空想性と危険性、普遍、憬れなど異なる価値を並列して感じさせる橋川の文脈を取捨選択・整理しなければ、近代の超克という名の前近代の再生という轍を防げないと考えている。


プログ主の考えとは少なくとも横軸で100度くらい異なっていることだろう。最近は文化をDNAにたとえる傾向があり、最も極端なものとして、ユングの民族的無意識がある。 幼少で他民族の養子となり、故郷を遠く離れた者が何の訓練もなく自国語を話せるようになる実例はない。文化的伝統は取捨選択可能でユングの民族的無意識をレヴィ・ストロースは手厳しく批判する。  臨死体験(重大疾病による一時的感覚の停止とそこからの帰還)など脳の構造・機能から説明できる種族的(人類共通の)無意識は存在する。それ以上の民族特有で遺伝する無意識などありえない。  そのような事実とは無関係に中国・北で権威的伝統回帰が進む。 北にとって、朝鮮労働党の金日成だけが抗日活動をしたとの神話、外勢からの自主独立を守っているとの正統性を絶対視し、正統性を集中するため壇君古墳捏造(江戸末期神武の墓も幕府により捏造された)、金正日白頭山誕生神話、日を含む改名など次々と自作自演を行う。 中国も造反有理を投げ捨て、専ら抗日と自主独立の実績を正統性根拠にする。その中で儒教的正統性を復活させた。 日本でも日に日に、靖国神社・時信作曲の「海ゆかば」、教育勅語など国体イデオロギーの宣揚せんとする傾向が強まっている。

ヘーゲルなどのアジア停滞論を丸山や守本は否定し、自然観・社会観は変容しつれて、政治思想も進展したと説明する。現在広まりつつある超国家主義の統一的把握はむつかしい。朝日等の超国家主義が主流派・正統な国体イデオロギーに対する異端であることを橋川は正当に解釈した。 今も昔も日本では系譜的正統性をドグマ正統性で補う方向より、レジテマシー正統の借景としてシンプル美的な祭祀付随装飾、自己犠牲のナルシズムを満たした和歌的情緒の吐露などで正当性を補完する方法が主流となっている。 橋川文三は美の論理と政治の論理で三島を窘めたが、同工異曲、前近代の執拗低音はこれからも繰り返し試みられるはずである。

橋川は正しい事実もたくさん指摘したが、超国家主義にGHQの神道指令が指摘する血縁差別性、国土・祖先神・民族の聖性、つまりは他民族と比較しての優秀性主張を概念化していない。これは私が不満とするところである。
プログ主さんや、中島岳志は永遠の微調整で安定期に入ることが可能と考えておられるのかも知れないが永遠に大きな調整がない状態はありえない。  血縁的差別を伴う超国家主義は現在の危険ではないか。

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆  

※追記1 和田氏は私の拙文好日27 戦後最大の思想家は誰かにもコメントを寄せて下さっており、そのコメントに私も若干のレスポンスを返しています。関心ある方はご参照下さい。こちらですコメント

※追記2 私も<橋川文三の回顧>を書いております。ご参考までに。→ 好日21 詩人としての橋川文三     

難しいことを考えた後の疲れた頭をリラックスさせてくれるのはこんな音楽


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

★ダンボールの部屋へようこそ!!! ⇒
コンテンツ総目次&本文へのリンク